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December 4, 2007

『タロットカード殺人事件』ウディ・アレン
結城秀勇

[ cinema , music ]

 珍しくスカーレット・ヨハンソンに好感を持った。いつもいつも彼女が演じるセクシーで謎めいた女性にはあまり説得力がないように感じてしょうがない。たとえば、ウディ・アレンとはじめてコンビを組んだ前作『マッチポイント』でもファムファタルめいた女を演じていたけれど、映画の終盤になってわかるのは、彼女がつまらん女だということだった。ところがこの『タロットカード殺人事件』におけるヨハンソンは、はじめっから開けっぴろげな田舎娘を演じている。まるで映画の冒頭から犯人がごろりと投げ出されているこの映画のストーリーそのままに、もう見たまんまのぽっちゃりしたバカな女の子なのであり、それが終盤にいたって「実は違いました」なんてオチをむかえるということもない。そのまんまだ。途中でウディ・アレン演じる手品師が、「去年仮装パーティをしましてね。私は道化師の扮装をしました。彼女は子豚の仮装をしました。仮面なしで」、なんて適当なことを言うけれど、この映画のヨハンソンは「仮面なしの仮装」という役柄を演じているようで、そこが逆に着ぐるみ的な愛らしさを生んでいる。
 イギリスのアメリカ人、ハイソサエティな集まりに紛れ込んだ平民、アレンとヨハンソン演じるふたりのストレンジャーはそのストレンジっぷりゆえに愛される。現実に異邦人であるふたりにとって、それもまた「仮面なしの仮装」である。彼らは少なくともこの映画の中では見たまんまの人間であり、その明白さは死後の世界という向こう側まで見通して結論に先回りするこの映画のつくりと通底している。冥界はオルフェにおけるような鏡の向こうの別世界ではないのだ。「鏡を通してぼんやりと」(「コリント人への手紙」)ならぬ、「鏡を通してくっきりと」がこの映画の法則である。観客たちの目には明らかなマジックミラーの前で、ふたりのストレンジャーだけが合わせ鏡の中に迷い込む。見え透いた嘘で命を救われもすれば、右と左を取り違えることが致命的なミスになりもする。ただ曝け出されたストレンジさを見ていればいい。私たちは安心して、彼女たちが右往左往するのを見ていられる。
 蛇足だが、アレン=ヨハンソンコンビの次回作はスペインで撮影されるという。だとすれば「イギリスは舞台も面白いし、インド料理もおいしいが、ずっといる場所じゃない」というシドニーの言葉も含めて、この映画の中で演じられる「仮面なしの仮装」は変に穿った見方をせずに、文字通りに受け取ればいい、ということだろうか。


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