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February 1, 2008

『ジェシー・ジェームズの暗殺』アンドリュー・ドミニク
結城秀勇

[ cinema , sports ]

 伝説的な偉大さと凡庸な卑小さ。その対決が見られるものと思い足を運んでみたものの、期待は裏切られる。ブラッド・ピット演じるジェシー・ジェームズは、異様な人物ではあるものの偉大な英雄などではない。彼の行動自体は、後に「coward」の烙印を押されるロバート・フォードのとった行動とまったく同じだ。では何が彼を英雄に仕立て、ボブ・フォードを臆病者に貶めるかといえば、それはジェシーの生前は小説やジャーナリズムの作る物語であり、死後には防腐処置を施された彼の映像に他ならない。
 これがブラッド・ピットのベストアクトなのかどうかは知らないが、彼の無感覚な表情(しかし彼はずっとこれだけをやり続けてるという印象もあるが……)は確かにこの映画において重要な意味を持つ。それはこの映画が、ジェシーの死後を描くことに明らかに力点を置いているからだ。時間的にはわずか30分ほどの、王位を簒奪したはずだがやはりうだつの上がらないケイシー・アフレックとサム・ロックウェルの「その後」こそがこの映画のやりたかったことのように思えてならない。死体か人形かといった感じのブラッド・ピットの皮膚が、ケイシーとサム兄弟の顔を塗り込める舞台メイクになる。彼らは暗殺という「決定的な事件」を800回も繰り返し演ずることで、自分たちの行為を目も当てられないほど凡庸なものに変える。
 しかしいかんせん、それまでのシーンでの不手際がこの重要な場面での盛り上がりを妨げる。なぜ、ケイシー・アフレックとブラッド・ピットの共通点をセリフやナレーションによって情報として提示するだけで済ませてしまうのか。「ボブはジェシーの先端のない中指を思い浮かべた」とか「身長は同じ173cm」だとか「ボブはジェシーの飲みかけの水を飲んだ」なんていう表現でお茶を濁してしまうのか。黙って見せればよかったじゃないかと思うのだ。
 なぜ同じ敗者の中にも映像を持つ者と持たざる者がいるのか。それをケイシーとサムの顔によって見せるべきだったのではないか。