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February 15, 2008

『テラビシアにかける橋』ガボア・クスポ
結城秀勇

[ cinema , sports ]

 絵が上手いのと足が早いのだけが取り柄のいじめられっこの貧しい少年が、転校生のボーイッシュな女の子と仲良くなり、ふたりは家の裏の森に空想の王国を作り上げる。こんなとき転校生の女の子が冴えない男の子にしてあげることの相場といえば、聞いたことのない音楽を聞かせたり、読んだことのない小説を貸したり、そしてなにより恋を教えたり、といったことであるはずなのだが、それを行う「年上の女」は別にいる。転校生が行うのは、三文ファンタジーの筋書きを考え、それを主人公の少年に具体的に描写させることだ。彼らは異性であるよりも互いに唯一の親友なのであり(彼らは王国の中で「誰よりも早く走れる者」であり、「誰も彼らを打ち負かすことはできない」)、だから主人公が年上の女にうつつを抜かし、アートの世界に目覚める瞬間に、転校生は姿を消してしまうというのも当然なのだろう。いまはまだ早い彼女の駆け足も、いずれ訪れる身体の変調とともに男の子には追いつけなくなるというわけだ。
 ということで、親友である異性の喪失から主人公がなにかを学び成長するという話であれば、あまり出来のよくないジュブナイルものということで話は済んでしまうのだが、問題は主人公がなにも学ばないということなのだ。確かに、始めは彼をひたすら排除していた世界は転校生の喪失とともに、突然彼を受け入れ始める。そして彼は空想の王国で、決して彼に追いつけるはずのない「現実」という黒い影に捕まってしまう。だからなにかが確かに変わったはずなのだが、なにがどう変わったのかがまったく明らかにされない。ここで彼が空想の王国を捨てれば話の筋はわかるのだが、逆に彼は王国の細部をさらに書き込むという作業にでる。そしてそこに幼い妹を招き入れるとき、かつて親友と見たのとは別の世界が広がる。主人公の空想が現実に有効な「才能」だという評価を得るなど、空想の王国から現実の世界への架け橋は様々な形で架かっているにもかかわらず、彼は空想の王国と現実世界の国交を絶ってしまったように見える。転校生と思い描いた世界はまだキモ可愛いものだったが、妹の力を借りて完成した王国の細部はむしろおぞましくさえある。
 映画を見終わって、ふとSPA!を手にとったら今週の「エーガ界に捧ぐ」がこの映画を取り上げていた。そこで用いられている「アンチ・ファンタジー」という表現はまさにふさわしい。ラストに一瞬登場するCG描写で隅々まで完成された想像力の世界は、いつか現実に辿り着くだろうなどと考えている生ぬるい空想を虐殺してしまうのだ。

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