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April 02, 2008
『granité(グラニテ)』大野敦子(「桃まつり」より)松井 宏
[ cinema]
『granité』の映し出す三浦の海岸と広大な畑の風景は、どこまでも重く鈍い鉛色だ。空も、そして海さえも登場人物にとっては逃げ場とならない。このフィルムが土、水、火、大気の四大元素からなるフィルムだとすれば、それはその四元素がひとりの若者にとって、歓びに満ちた保養材ではなく、あくまでも切迫した何かとしてあり(その切迫さは大野のもう1本『感じぬ渇きと』でも明瞭だ)、膨張しながらいまにも彼に襲いかかろうとしているからだ。嵐の予兆に満ちた世界…。素晴らしいパンニング、つまり畑と山と空を捉えるそのパンニングは、自在さによって大地の開けを示すのではなく、逆に一種の不自由さとともにその大気のどうしようもない重さを示すためにある。そのなかで若者は耐える。それは、自らの犯していない罪、つまり父が犯しそして継承してしまった罪——まさしく根源的なフィクションの形態つまり「悲劇」の世界だ——に耐える姿でもある。だがしかし、やがて拮抗は崩れ去るだろう。予兆としての嵐が爆発するとき——撮影最終日に嵐が来たという逸話は、この作品に内包された偶然的な必然性なのだ——「悲劇」もまた獰猛な姿を現し、フィルムのなかに奔流として流れ込む。そうして境界は「じゃりじゃりと」崩れ去り、その摩擦によってあの「炎」が生じるのだ。おそらくその炎こそは、悲劇の世界を生きる人間に『granité』が与えるチャンス、メタモルフォーズのチャンスなのだ。つまり別の新たな生を生きること、そうフェニックスのように、若者は別の自分になり、そこから自らの家族=物語を作り出していかねばならないのだ。たとえそれが再び悲劇になろうとも…。
『granité』は「自然」と「悲劇」を同じ視点で捉え、それらを最大限まで膨張させ、そして一挙に人間の内側へと流れ込ませる。だが同時に、その苛酷さの奔流に身体の芯まで燃やされてこそ人間は生まれ変われるのだと、このフィルムはそう語ってもいるのだった。
投稿者 nobodymag : April 2, 2008 01:21 AM
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