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July 12, 2008

『歩いても 歩いても』是枝裕和
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 これまで是枝裕和のフィルムとは、とても相性が悪かった。それどころか、彼のフィルムには、映画のエッセンシャルな要素だとぼくが考えてきたことを裏切る何かがあると感じられ、それを強く批判さえもしてきた。
 だが『歩いても歩いても』を見る限り、かつてぼくが批判してきた彼のフィルムに関わる要素は、かなり稀薄なものになってきている。これは「『カポ』のトラヴェリングだ」と批判した死を超自然的な美意識に溢れた映像に回収してしまった作品(『ディスタンス』)、「現実をオブラートに包んだものにしか見えない」とかつて書いたことがある作品(『誰も知らない』)などに見られた「美学的な演出」が影を潜め、長男の命日に再会する両親と長女(とその家族)と次男(とその家族)の一日を丁寧に撮影することで、もともとこの映画作家に備わっている力が十全に発揮されているように思えた。これらの人々の間にある多様な齟齬をどう示すのか。このフィルムにあっては、母親を演じる非常に巧みな樹木希林を除いて、台詞で直接感情を吐露することはない。その齟齬は、彼らの一日を包み込む衣食住の演出によって、極めて巧妙に表出されている。トウモロコシの天ぷらをめぐるエピソードやこのフィルムのタイトルの裏委になっている歌謡曲の歌詞の使用など、思わず「うまい」と舌を巻いてしまう瞬間には枚挙に暇がないほどだ。
 京急三浦海岸近郊の急斜面の上の住宅地にある町医者(原田芳雄)宅。ある事情から、この家族の長男が水死している。この家から少し下ったところにある墓地に長男の墓があり、そこからは京急線と海が一挙に望まれる。この風景をロケハンで発見したことが、このフィルムの説得力に繋がっていると思う。小高い丘の上から墓地を捉えるショットの彼方に海があり、その前を京急線が通っていくことは言うまでもないだろう。映画において、電車は「通り過ぎる」ものなのだ。
 だが、欲張りなぼくはまだ足りないと思ってしまう。できれば、否、必ず電車は「すれ違って欲しい」のだが、そうではなかった。何年かの間隙の後、再びこの同じ風景が反復されるのだが、子どもが大きくなり、新しく女の子が生まれているという変化は認知されるのだが、その前景になっている風景は同じだ。真新しい住宅はそのままだし、京急線の車両も型番が同じなのではないか。そして、黄色い蝶をめぐるエピソードは、『幻の光』以来、不変の「是枝的なるもの」を表象している。衣食住という「現実」の極めて巧妙な演出を壊している。同じように「日本の家族」を描いた小津安二郎なら、こうした超自然的な要素など何一つ使用しなかったことを思い出す。

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