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September 29, 2008

講演「肖像の理論のためのスターの顔」ドミニク・パイーニ
結城秀勇

[ book , talk ]

 東京日仏学院にて開催中の特集上映「映画におけるメタモルフォーズ」の中の1本、アルフレッド・ヒッチコック『めまい』の上映後、プログラムを行ったドミニク・パイーニ氏による講演が行われた。先だって前日の青山真治監督との対談の前に行われた講演では、この特集プログラムの全体に渡って話が展開された(それはウォルト・ディズニー『ダンボ』から、ジェリー・ルイス『底抜け大学教授』、果てはロビー・ウィリアムスのPVや現代アートまでを照準に含めた壮大なものである)が、本講演は『めまい』という1本の映画を中心に組み立てられる。なぜならこの映画は、「映画におけるメタモルフォーズ」というプログラムに流れるふたつの基調を完璧なまでに巧妙に併せ持つ作品だからである。そのふたつの基調とは、『ファウスト』『レオパルドマン』『潜行者』『マイノリティ・リポート』『トロピカル・マラディ』における変身/顔の変形という要素と、『間諜X27』『お遊さま』『スリ』『ヒストリー・オブ・バイオレンス』『ブラウン・バニー』における顔が変わらないこと/無表情という要素である。そして『めまい』こそ、「ある女性を別の女性に似せるために変形させる」が「そのふたりの女性は同一人物である」という両者が互いに循環し合うような物語を持った映画なのである。
 また物語上そうであるばかりではなく、『めまい』は構造的にも強固な循環性を持ち、閉じられていない作品なのだ、という点から話は開始される。『めまい』はジェイムズ・スチュアートが逃走中の犯人を追うシークエンスで幕を開ける。その後の事件を引き起こす彼の「めまい」が生じるのを描く場面なわけだが、それはまるで「なにか他の映画の途中の部分」の続きがいきなり始まったかのような印象を与えるとパイーニは語る。そしてめくるめく反復に次ぐ反復が展開するこの作品は、最もドラマチックな事象−−キム・ノヴァク演じる女性の死−−が反復することで幕を閉じるわけだが、しかしそれもまたそれが本当に最後の反復であったのかは誰にもわからないという点で、第3第4の反復がこの映画の途中から再度開始されるかもしれないという循環性が最後まで残る。
 この作品に渦巻きや緑というモチーフが繰り返し登場することは様々な論者によって語られているが、パイーニは幾つかの抜粋を提示しながら細やかに分析していく。花弁の構造、髪型、階段の螺旋、そしてスチュアートの運動までが渦巻きという形態にとらわれていくが、その渦巻きの中心に残される空虚は死である。それと同時に、渦巻く運動は中心を飾る装飾となる−−まるでペンダントの枠、カメオの縁飾りのように。空虚には肖像がはめ込まれるのだ。造形芸術が辿ってきた肖像の歴史を遡行するように『めまい』は肖像を思考するという視点のもと、数々の興味深い指摘が行われたが、その中でももっとも刺激的だったのは、スチュアートが初めてノヴァクを目撃するシーンについてのものだ。そのシークエンスは、スチュアートの視線をノヴァクの視線で直接切り返すのではなく、カメラがふたりを結ぶ直線から大きく一度退いてから、ゆっくりとノヴァクの後ろ姿を捉える。すなわちスチュアートの視線ではなく、一度われわれ観客の視線になってから、初めてノヴァクの肖像が描き出されるのだ。しかもそれがもっとも鮮明になるのは、完璧な肖像である横顔(色彩や凹凸のなくなった影、移動祝祭などで大衆が最初期に手に入れることのできた自己イメージたる切り絵)によって、なのだ。極めつけはノヴァクの横顔がもっとも大きく映し出されるとき、そこにスタンドインの別の女性の顔がサブリミナル的に挿入されているという指摘だろう。ふたりのノヴァクは同一人物でありながら、ひとりのノヴァクの肖像の中に別の女性が紛れ込んでいる……。


 この講演によって様々な考えが触発された。この文章の始めの方でプログラムされた作品をふたつに分類したが、この分類はあくまで仮のものでしかない。互いが互いの中を行き来する。例えば『ヒストリー・オブ・バイオレンス』における、モーテンセン的としか言いようのない無表情と彼のかみ合わないふたつのアイデンティティ。追っ手を欺くために変形する『マイノリティ・リポート』のトム・クルーズの顔は(『コラテラル』におけるようなサイボーグめいた)無表情を備えてもいること。『間諜X27』は不動のディートリッヒのイメージが様々な変装の中で揺れ動く映画だとも言える。つまりいくつか個別の作品にまたがるスターの肖像のあり方。『めまい』におけるキム・ノヴァクは鮮烈なイメージとともに、先程述べたスタンドインの女性のイメージがインサートされることやタイトルロールでまったく別の金髪女性のアップからこの映画が始まることなどによって、非常にとらえどころのない印象をも感じさせる。よりヒッチコック好みのヒロインたちよりも、彼女が肉感的であることも関係しているかもしれない。一方スチュアートはマンやフォード、ホークス、プレミンジャー、オルドリッチなどとともに形成した「戦後のスチュアート」、仕事は見た目よりも優秀だが敗北の苦みを(そしてときに勝利にも苦みが伴うことを)知る男をこの映画でも演じている。「肖像の肖像、表象された肖像」としてのスターの顔。こうしたレヴェルでの展開も可能ではないだろか。
 そしてもうひとつだけ。『めまい』のスチュアートは、暗い部屋の窓際で完全にシルエットとなった横顔によって、ふたりのノヴァクの同一性を看破する。カットが変わってカメラが彼女の前面に回り込んでも、「まるでピカソの絵画のように」そこにあるのは「正面から見ても横顔だけ」、決して視線を交わらせることのない顔なのだ。そこから、ふたつの肖像の視線をどのように交わらせるのかという問題も派生してくる。廣瀬純が『アワーミュージック』について述べていた、「フェイス・トゥ・フェイス」の切り返しに対する「バック・トゥ・バック」の切り返し、これもまた肖像の歴史の先端で切り開かれなければならない領域だろう。


東京日仏学院 特集上映「映画におけるメタモルフォーズ」
『めまい』の上映は10/4(土)14:00〜も