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February 7, 2009

『感染列島』瀬々敬久
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 タイトルとは裏腹に「感染」という現象に対するこのフィルムの関心はきわめて薄い。それは前提条件にすぎず(それが空気や体液といった経路によってもたらされることが説明されれば十分なのだとオープニングのCGは雄弁に語っている)、その結果としての状況の描写だけが並べられていく。荒廃した東京の相貌にせよ、病院に押し寄せる人の群れにせよ、それらは別に未知の病原菌をその原因とせずとも、正体不明の怪獣でも宇宙人でも、あるいは金融危機(描かれている状況はこれに一番近いように思える)が引き起こすものでもなんら構わない。最終的に1000万人超の死者を出した大災害にもかかわらず、ライフラインはおろか高速インターネット回線も健在なのはなぜか、と疑問に思うことはまあ徒労であるだろうが、しかしなぜそのような状況がこの映画に必要なのかを考えることはできる。その答えは妻夫木聡と壇れいだけの恋愛映画を成立させるためである。
 彼らはウィルスによって閉ざされた世界のおかげで、存在しなかったはずのラヴストーリーを「生き直す」ことができる。それはほとんど保護政策のようなもので、彼ら以外誰も介入する余地のない、まさしく蚊帳の外の恋愛がウィルスによって与えられる。まさかの再会も、かつての恋の再燃も、そして二度目の別れさえも。それでも足りなければいつだって病院の敷地内に雨を降らし、風を吹かせ、雪を散らし、そして車をガス欠に陥らせる準備はこの映画にはある。だから一見極限的な状況に置かれているはずの彼らの恋は非常に牧歌的だ。
 しかしその背後で同時進行的に死んでいくはずの1000万人はほとんど黙殺である。それもふたりの恋のためには致し方ないことのようだが、それにしても「予定通り」にウィルスに感染した壇れいが死に際に妻夫木に告げる「(防護マスクを)取ったら許さない」という一言の、なんと残酷なことか。それは妻夫木くんにだけではなくて、このフィルムのあらゆる名もなき死者と、この映画を見る観客に対してでもある。あたかも「私(=映画)とあなた(=観客)は一緒にいてはいけない」のだと、「マスク(=スクリーン)」という境界だけを理由に語られているようではないか。誰もがこのウィルスによってもたらされた悲劇を「映画」のように忘れ去り、灰色だった東京には色彩が戻り、生き残った人々は笑顔を浮かべて歩いている。ウィルスの危機と人々は完全に切り離されている。妻夫木くんはいったい何のために戦っていたのか。彼に忍び寄る危機は、最初から彼には関係のないことで、触れてはならないものであって、それをただひたすらに眺めて受け入れていればいいってことなのだろうか。でもそんな論理に納得することなく、壇れいを抱きしめたっていいじゃないか。藤竜也が言うように、それと共生する道を探したっていいじゃないか。
 たとえば「1000万人の死者たちが人々を道連れにすべくゾンビとして蘇り襲いかかってくる」、この映画の終盤でそんな情景をラストシーンとして妄想してしまったのは、ウィルスをはじめとしたこの映画におけるあらゆるフィクションが、現状維持か、あるいはユートピアの創造にしか関与していないことを、感染の危機なんかよりもずっと恐ろしく思ってしまったからだ(これはもはや現場のレベルでどうこうできる問題ではなくて、より大きな資本のレベルの問題だろうが、しかし)。 妻夫木くん主演の「Dr.コトー」が始まったところで映画は終わる。残された人々には危機の後の未来はなく、漫然とそれ以前と同じ世界を生き続けることだけが告げられている。それって、あまりにも哀し過ぎやしないか。

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