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February 18, 2009

ジャック・ドゥミの『ローラ』と『天使の入江』
松井宏

[ cinema , cinema ]

 『ローラ』(61)でひとを驚かすのは、何よりもその速さだ。それはクラシックの、というかホークスの、なにもそのスクリューボールコメディだけでなく敢えて言うなら『コンドル』にこそ顕著だと思うのだが、速さだ。ひとびとはみな急いでいる。誰もが時計の時間を気にしている。「あと30分で行かなきゃ」「次の約束があるの」。ひとつの出来事/会話の最後に、必ずと言っていいほど次の出来事へ急ぐひとの姿が描かれる。その連鎖はやはりホークスを思わせざるをえまい。感傷に浸っている暇はない。飛行機のエンジン音が次の出来事への先駆であるように、別の異性が、別の約束が、列車が、あるいは自分の子供や仕事が、ローラはじめすべてのひとびとを、潜在的にすでに、待ち構えているのだ。さらにそこへクタールの不安定なキャメラと、比較的短なカット割りが加わるとき、このフィルムの速さと目眩は否応にも増大するだろう(ゆえに、あの歴史的スローモーションに我々はとてつもない感動を覚える)。まさしくこれは活劇に間違いない。
 そして『天使の入江』(63)でひとを驚かすのもまた、やはりその速さだ。だが時計屋の父から逃れたアダムとイヴが主人公であるゆえに、時計の時間はここで彼らのモーターとはならない。急ぐことはない、この「地獄」でひとまず時間は止まっている。コケティッシュなローラ=アヌク・エメから、よりファムファタルなジャッキィ=ジャンヌ・モローへ、無邪気に心の内を喋りまくる女性から形容詞を欠いて真実と嘘を彷徨う女性へ、また比較的短いカット割が減り見事な長廻しが多用され、キャメラの不安定さが夢魔的に緩やかな安定を獲得し、複数の登場人物たちの重層性が欠如してひとりの男と女の表面だけが残されるとき、では『天使の入江』の速さとはいったい何なのか。それは『ローラ』的な連鎖ではなく、噴出とでも言うものだ。感情は一瞬で暴発する。移動するキャメラが敷居を跨いだ瞬間、カットが割れた瞬間、その他、そしてルグランによるメロディの爆発的ファーストタッチに導かれるごとく、突如として感情は暴発し、父は息子を勘当して、男と女は身体を抱き合い、女は男の元へ走り寄りこの地獄を出て行こうとする。それはどこかブレッソンを思わせるような、または活劇としてのメロドラマとも言えそうなものだ。そう『天使の入江』は『ローラ』とはまた別種の活劇だ。
 ところで『天使の入江』とは、ドゥミ的な、登場人物たちの(近親相姦要素も含めた)重層的関係性を欠いたフィルムだと、そう思っていたが、実のところそんなことはないのだと今回確信した。つまりジャッキィは、ジャンの死んだ母親なのだと。そもそも、あのプラチナブロンドはファムファタル的記号には一切見えない。それは老いたまま若返り、存在を希薄とした女性の、まさに夢幻的な身体だ(その髪は南仏の光に、あるいは白い壁に、いまにも消え入りそうだ)。時計屋の父があれほどギャンブルを忌み嫌うのも、かつて妻がジャッキィと同じようにそれに没頭したことがあったのだろう。あるとき、大負けしたジャッキィが先にひとりで質素なホテルへ戻り、ベッドで仰向けになる。左腕には腕時計。そしてジャンがドアを開ける音が聴こえた瞬間、彼女は腕時計をそそくさとバッグの中へ隠す。これは後にジャンに内緒で腕時計を質に出し、資金繰りするための行為なのだが(ジャンはそういった資金繰りを咎めるからだ)、それ以上に別種の感覚をもたらしてくれる。すなわち、時計屋の夫から逃れること。妻はかつて、実のところジャッキィほどに奔放な生活を送れなかったのだろう。夫のため、息子のため、彼女はすぐにギャンブルを捨てたのだろう。そう、いま彼女はジャッキィとして、かつて生きることのできなかった人生を息子ジャンとともに生きている。それは息子ジャンにとっては悪への誘いかもしれない。だが彼女にとっては、善悪の彼岸を越えた、別の生への不可能な希求なのだ。
 冒頭の、ジャッキィから遠ざかってゆく暴発的なキャメラ移動によって(あれは本当にジャッキィだったのだろうか?)、時間は巻き戻され、その入江は天使によって過去を現在へと重層化させる。ドゥミにおける母たちはつねに、過去の別の生を望んでいる。『天使の入江』はそれを、近親相姦の危うさとともに、美しく現実化してみせる。