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February 25, 2009

『ベルサイユの子』ピエール・ショレール
松井宏

[ book , cinema ]

 「『ランジェ公爵夫人』のモンリヴォーの役によってこの俳優の稀有な才能が明らかとなり、彼のキャリアが再び開始されたと言えるでしょう」と、パスカル・ボニゼールはギヨーム・ドパルデューについて語っていた。キャリア初期にバイク事故を起こし、やがては義足を纏うことになるこのフランス人俳優を苛立たせていたのは、だが偉大な父ジェラールとの比較よりも、自身の出演作『ポーラX』の監督レオス・カラックスとの間にひとが見る共通点、つまり「呪われた」という冠ではなかったか。歳を重ねてなおその行動と発言で問題児ぶりを発揮するこの俳優は、たしかに「呪われた俳優」と呟くに相応しい、世界でも稀な存在なのかもしれない。だがボニゼールの予言通り、2007年以後どうやら彼のキャリアは再び開始され、出演作も一挙に増加したようだ。もはや「呪われた」の冠は、彼の頭から見事に外されたのだろうか。
 そう、そもそも彼は呪われてなどいない。やんちゃさと諦念と、そして絶対零度の狂気を、怒りの肉体に閉じ込めるGDとは、呪われいるのでなく、呪いをかける俳優なのだ。彼が画面に存在する瞬間すでに、観客は呪いに掛けられている。
 『ベルサイユの子』のGDは、まるで『ポーラX』の後半部の別バージョンを演じているかのごとき。冠を剥奪され、追放された王。いや、もはや自ら進んで冠を捨てた王。だがここでその王は、インダストリアルなオペラに赴くのではなく、ヴェルサイユの森のなか、「どん底」の共同体を作っている。だがそこにルノワール的な楽天さなど微塵もなければ、さらにそこは、ソローの森の生活のごとき理想の場ともならない。そこは、あるときは「戦争のようなもの」(ベルトラン・ボネロの最新作『De la guerre』で演じた違法越境案内人を思い出させる)に覆われ、あたかもドパルデューは来たるべき出来事に備え、ただ労働しつづける。
 その出来事とは何なのか? それは父になることだ。そもそもこのフィルムは、ある路上生活者の女性(ジュディット・シュムラ。青山真治監督がフランスで撮り上げた最新作『赤ずきん』の主人公だ)が、自分の幼い子供を、森のなかで偶然出会ったGDに託して自ら消えるという、そんな物語から出発している。そんな神話的な物語においてGDは子供を受け入れ、父となる。こんなシーンがある。あるとき酷い咳に襲われ、おそらく自らの余命幾ばくもなしと感じたGDは、かつて(いまでも)反目し合う自分の父親の元に、子供を連れて滞在するのだが、当然父親は尋ねるわけだ、この子の母親は誰なのだと。彼は答える。「オレだ」と。
 「わたしはおまえの父であり、母である」。これこそ、真にGDに訪れる出来事だ。そのときGDは、おそらく神のような存在になるはずだ(このフィルムに散見される宗教的記号を甘んじて受け入れようではないか)。実際『ベルサイユの子』はこのGDに捧げられている。そしてGDはといえば、このフィルムに肉体を与え、このフィルムの観念を労働の具体に取り替えてやる。聖母が淫売であるのが真実だという意味で、GDは労働者なのだ。ゆえにこのフィルムは、カタストロフを免れる。それもまたGDの呪いだろう。
 ちなみにこのフィルムにはブリジット・シィも出演していて、彼女がアコーディオン抱え「ドミノ」を歌うと、それはそれは、もう無性に感動してしまう。ブリジット・シィという淫売の聖母がジュディット・シュムラを導き、GDという労働者としての神が、子役マックス・ベゼット・ド・マルグレーヴを越境させる。『ベルサイユの子』はそんなフィルムだ。

5月シネスイッチ銀座ほか全国順次公開

フランス映画祭2009にて先行上映