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March 7, 2009

『毒婦高橋お伝』中川信夫
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 車を引く前夫に、床に臥したままの亭主に、人身売買を裏稼業とする宝石屋の店主に、そして自らの罪を誤魔化すために誘惑した若い警官に……あらゆる全てに対し演じ続けること。それがお伝(若杉嘉津子)の唯一の処世術であり、麗し過ぎさえもする彼女の顔は生きるための嘘を生み出すための哀しい武器だ。人に「顔」を見せることを「演じる」という武器と同義のものとして生きたひとりの女性が、どうしようもなく「演じる」ことを捨てられないがゆえに人生を転落していく。お伝の顔を捉えたクロースアップに対して、切り返すように結び付く娘の「顔」と「叫び」が、ときおり決定的な場面で繰り返される。それは、彼女が最も応えたいと願いながらも決して達成されることのなかった「イメージ」――しかも彼女に嘘をつき続けた前夫に伝え聞いたことだけに根拠を持つだけのもの――にほかならず、それこそが『毒婦高橋お伝』の悲劇的な様相の中核を成している。
 お伝のあらゆる悲劇は「イメージ」に起因している。彼女は常に演じることによって自身の「イメージ」を生産し量産し、ついには自らそれに取り込まれることで自身の姿を失い、もはや自分が誰であるのかさえも忘れていくかのようだ。唯一彼女が「演じる」ことを捨てる理由になり得た娘が永遠に失われたあとには、それまで彼女の真実をささやかに語っていたかのように見えた無防備な背中姿にも鮮やかな紋様が浮かび上がることになり、その結果として横浜でふたりの男を復讐として殺し、その背中越しに、彼女が愛し得たかもしれない若い警官に罵声さえも浴びせてしまうことになる。
 だが、この「イメージ」たちによる悪夢を乗り越えることは可能であるともこのフィルムは語る。それはラストシーン、彼女を捉えた警官とともに列車の席に座っている彼女が、そこで見せる「顔」によってだ。このシーンにおける若杉嘉津子の「顔」には、もはや「見せる」という言葉すら適当ではあるまい。何よりもその「顔」は、ボロボロの長屋の中でどこを見るでもなく人形を手にした娘の乾いた「顔」の在り方にそっくりだ。演じることだけを繰り返してきたひとりの女が、復讐という行為の中で自らのあらゆる「イメージ」を消尽し、可能なことをすべて失ったものとしての「顔」そのものをスクリーンに現前させていることが、ただただ感動的だった。さらにはそこにおいてようやくお伝が、彼女の失った娘の「顔」と真の意味での切り返しを実現しているように思えてならなかったのは、はたして私だけだっただろうか。

特集「紀伊國屋書店レーベルを讃える」 シネマヴェーラ渋谷 ~3/20まで