« previous | メイン | next »

March 11, 2009

『SR サイタマノラッパー』入江悠
渡辺進也

[ cinema , cinema ]

 先日行われた「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」のオフシアター部門のグランプリ受賞作品。
 かつて「もう一度だけチャンスを」と歌ったのは若かりし頃のマイケル・ジャクソンだった。「チャンスを追いかけろ」と安室に歌わせたのは後に詐欺で逮捕されることになる小室哲哉だった。自分の出自ゆえに馬鹿にされ虐げられようともそれでも、セカンドチャンスを待ち続け成り上がっていこうとするのは『8mile』のエミネムだった。そして、「サイタマノラッパー」たちはあるかどうかもわからないチャンスをひたすら待ち続けている。
 冒頭。田んぼのあぜ道をノリノリで歌う彼らの姿を見て、最初彼らは名の知れたラッパーたちなのかと思う。だが、それは物語が進むにつれて何も成し遂げていない者たちの歌だったのだと気づく。主人公の男はいまだ実家に住み続ける端から見たらただのニートだし、その仲間はひとりはおっぱいパブで働き、もうひとりはただの大農家の息子だ。彼らは倉庫で新聞を読みながら歌詞を作り夢を語り合い、東海岸と西海岸の違いにこだわりそこに世界への距離を測る。しかし、その夢への道程も世界への道程もどこにも見ることはできない。明るい光なんてどこにも見えやしないのだ。
 それもそのはずでそんな夢や目標ばかり大きくて、そこに向かうまでのプロセスに対して彼らは正しいアプローチをしていない。パフォーマンスをするべき場所を間違え、自分と関係ないところからリリックを作ろうとする。そして、そんな彼らのラップを誰も認めていやしない。だから、彼らの外部からの言葉、それは市の教育委員会の人間であったり、かつての同級生だったりするのだが、ラッパーたちは彼らに辛らつな言葉をかけられる。でも、実は外部の言葉のほうがむしろ正しく聞こえるのだ。だって誰が見ても心配になるくらい、笑ってしまうほどダメダメなんだもの。
 それでも見ていて思わずほろっとしてしまうのは、彼らはバラバラになろうとも、ラップを捨てようとも、それでもチャンスを信じ続けているからなのだ。実際にチャンスが訪れるかどうかはわからないし、チャンスをただ待ち続けることがかっこいいことだとも思わないけど、ずっと信じ続けるその姿に思わず感傷的になる。あきらめちゃえばことは簡単なのだから。いくらくじけようともあきらめないことは結構大変なことだから。セカンドチャンスはそれを信じる者のもとにしか訪れないのだから。
 「ノ」という助詞を挟むふたつの固有名詞。「サイタマ」も「ラッパー」もどちらも固有名詞として認識できるけれども、そのふたつが同列に置かれたとき、その言葉はよくわからないものとなる。埼玉のラッパー?いったい何者?彼らは都会に出ることも他のジャンルを選ぶこともなかったいくらかひねくれた男たちだ。そして、何の根拠もなくただただ夢ばかり大きい者たちでもある。そんな姿をワンシーンワンカットの画面で写したこの映画は彼らの姿をやさしい視線でみつめている。そして、その視線の先にある姿は3年前でも3年後でもなく、いまだからこそ現れてきたのではないか。

3月14日(土)より池袋シネマ・ロサでレイトショー