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June 5, 2009

直枝政広ライヴ@爆音映画祭’09
結城秀勇

[ music ]

 爆音映画祭にて6/3、直枝政広セレクションによる『アイム・ノット・ゼア』の上映に先駆けて直枝自身によるワンマンライヴが行われる。彼の著書『宇宙の柳、たましいの下着』の中には、キャプテン・ビーフハート、フランキー・ミラー、アレックス・チルトンなどについて書かれた「あらくれ者にまつわるいろいろ」という章があったが、ギターを引っ下げたったひとりステージ中央に出てきた直枝の姿はそうしたコンテクストでの「あらくれ者」を思わせる。彼がチルトンについて語っていたような攻撃的だったりやさぐれたりするのとは別の静かな暴力性。
 たったひとり黙々とステージ上でチューニングを行う姿にロンサムま視線の有り様を見るというのも上記のコンテクストの上でであるが、しかし一度その楽器が鳴り出せば一抹の寂しさなどどこへやらふっとんでしまう。そこにありもしないドラムやベースやキーボードやらの音が聞こえ出すと言っては嘘になるが何か別の音で埋められるべき隙間はもはやそこにはない。
 トッド・ヘインズの『アイム・ノット・ゼア』という映画は公開時も未見であり、この日も時間が合わず見れなかった身でこんなことをいうのもなんなのだが、複数の人物によって体現されるボブ・ディランという半ば架空の人物よりも、直枝のプレイが想起させるのは近年のアメリカ映画の冒頭やラストで映画全体をひっ包みつつそこから半ば逸脱した世界を歌うボブ・ディランだ。それも『ウォッチメン』や『ブッシュ』でのように60年代の曲で現在までの歴史を裏写しにするディランではなく、『ラッキー・ユー』の最後に流れる誰も知らない男の人生をあたかもそれが長らく歌い継がれてきた者であるかのように自分の人生のように歌う男の声とでも言ったらいいか。
「普段よりアンプのヴォリュームが4、5目盛り分大きい」というこの日の演奏が特殊なのは機材のせいばかりでなく、ここが劇場だったということもある。ステージと客席という関係が一対一のフラットなものでなくて、まるで映写室から投影した映像がスクリーンで反射して観客の元に届く、そんな奇妙な奥行きを持つ。そんなことを考えていたら『宇宙の柳、たましいの下着』の中にある「夢を決めた友人たちは大切なレコードをそっくりおれに預けて輝かしい顔で社会へ出ていった。おかげさまでおれのレコード棚には何枚も同じレコードがある。(……)いいよ、おれが受け持ってやるよ」という一節を思い出してしまってまるで柳の下の幽霊とともに歌うかのような直枝の姿に非常にグッときてしまった。同書を主題につくったという「Willow in space」という曲の居場所もそこだろう。
 なぜか最後の曲の最初のストロークが鳴らされた瞬間に「愛のさざなみ」だと気づいてしまってあとは無性に泣けた。


爆音映画祭’09at吉祥寺バウスシアター 6/6以降はレイトショーにて開催中