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June 26, 2009

『この世界、そして花火』ジム・トンプスン
結城秀勇

[ book , sports ]

 トンプスンの死後にまとめられた未収録作品集の邦訳が出ている。中短編集と呼ぶにはあまりに作品の年代も文体もヴォリュームも様々で、手当たり次第に年代順に書き損じの紙くずの山の中からサルベージされた言葉たち、という印象を受ける。だからだろうか、20代の頃の作品が次第に「セリ・ノワール」 1000冊目を飾る作家の作品群へと変貌を遂げていくさまが、肉体的な速度で体感できる。
 1906年生まれで、年齢的にはまかり間違えばヘミングウェイやハメットのように両大戦間のハードボイルド作家という位置づけを得ていたかもしれないトンプスンだが、実際にはどうまかり間違っても第二次世界大戦後の作家であるのだということがこの著作集からよくわかる。それは、自伝的作品である「酒浸りの自画像」が収録されているからということでもない。そもそも自伝的という意味で言えば、1929年に書かれたという「油田の風景」であっても彼自身が体験した採掘所での労働に根ざしているのだし、既に邦訳されている長編の主人公たちの職業、保安官、編集者、映写技師、ギャンブラーといった事柄さえ、彼自身の経験無しには書き込まれないような細部に支えられている。短篇を含めれば両大戦間から作家として活動していた彼が、あのジム・トンプスン、セリ・ノワール初代監修者マルセル・デュアメルを魅了し、スティーヴン・キングなど後続の作家たちの心を捉えてやまない作家になった地点とはいったいどこなのか。
 それは「女」の登場に関わっているのだということを、この著作集を読んで再確認した。その登場にはもちろん短篇以上の分量が要求されたのだし、独特の一人称もまた必要とされた。掲載順に「システムの欠陥」、「四Cの住人」、「永遠にふたりで」という短篇を読んだ後で、「深夜の薄明」や「この世界、そして花火」という中編や未完の長編に突入した瞬間に爆発する感じ。別に取り立ててきれいなわけでもなく、賢いわけでもなく、逆に完全な白痴というのでもなく、主人公を罠にはめるわけではないが、それに関われば優秀な悪人であるはずの主人公が勝手に自滅する「女」がそこにはいる。ファム・ファタルなどというより、むしろただの「女」。その「女」像が母性に回収されてしまう長編もあったと思うが(作品の名前が思い出せない)、むしろトンプスンがほとんど同じような話を語り続けていく中で生み出されてしまったこの「女」は、母性すらそこに呑みこんでしまう底の深さを持っているのではないかという気がした。
 余談だが、『この世界、そして花火』の解説で翻訳者の三川基好氏の訃報を初めて知った。彼の翻訳が非常に好きだったので残念だ。