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September 25, 2009

『クリーン』オリヴィエ・アサイヤス
結城秀勇

[ cinema , sports ]

 No home, no money, no job. 出所したマギー・チャンがニック・ノルティに子供に会うことを避けてほしいと告げられる場面で、確か彼女は自らの母親としてのダメさ加減をそんなふうに形容していたのだった。その言葉通り、この映画全体を通して彼女の住処はまったくと言っていいほど描写されることがない。「思い出のあり過ぎる」ロンドンのアパートはおろか、物語の起点となるモーテルを離れて以降に、彼女が眠る場所、たとえ束の間に過ぎないとしても彼女が留まる場所が映し出されるのは、ベアトリス・ダルが所有する一軒家の一部屋を借り受けるのを待った上でであり、それまでに映画の中ではかなりの時間が経過することになる。
 そしてその間、マギー・チャンはパリで中華料理屋でウェイトレスを務める傍ら、かつて属していた放送業界にコネクションをつたい、最終的にはプランタンの婦人服の売り子としての職を得る。彼女がその最中に寝泊まりしている場所はどこにも映し出されない。はじめに映し出されたハミルトンの工業地帯、最後に映し出されるサンフランシスコの光景(そこは子供の生まれた場所でもある)、そのふたつのエスタブリッシングショットの間に挟まれた彼女の居場所、あるいは彼女の居場所を保証する職業は、すべてが流れ去っていくかのようなエリック・ゴーティエのカメラワークと同期するようにエフェメラルなものになる(homeとjobの間に挟まれたmoneyの、この映画におけるあり方については「nobody15」掲載の樋口泰人による論考を是非参照いただきたい)。
 ひとつの歌の完成を描いたこのフィルムにおいて、マギー・チャンが歌い上げることになる歌が、潜在的なコーラスとして鳴り響くニック・ノルティの低音のつぶやきに支えられていることを、この映画がかつてバウスシアターで爆音上映された時に強く感じた。だが物語の展開も十分承知しているこのフィルムを何度目かに見直して改めて感じたのは、歌の完成への過程で様々なもの(その居場所や仕事、その愛)が生起しようとしては力なく流れ去っていく、過酷な美しさだった。それは間違いなく『夏時間の庭』を見たという体験の影響の下でのことだろう。あの映画で描かれていたのは、エディット・スコブが様々な家具をその作者の名前で呼ぶやり方と、美術館に所蔵されて同じ名前で呼ばれることは、まったくの別物だということだった。有形であれ無形であれ、誰かが残した「仕事」と共に住まうこと、共に生きることという点で『夏時間の庭』と『クリーン』は深く響き合う。だからせめて、『夏時間の庭』を見た人と同じだけの人が『クリーン』を見るべきであると思う。オルセー美術館所蔵の美術品が見たければオルセーへ行けばいいが、その「仕事」の中に流れる任意の瞬間を見せられるのは、映画だけだ。


渋谷イメージフォーラム他にて公開中!イメージフォーラムでの日中の上映は10/9まで!

nobody 31号にて、オリヴィエ・アサイヤスのインタヴューを掲載。