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September 29, 2009

『空気人形』是枝裕和
結城秀勇

[ cinema , music ]

「私は空気人形」と彼女は言うけれど、ペ・ドゥナの美しさは存在感の希薄さや空虚感を連想させるようなものではない。それよりはむしろ、ダッチワイフとしての彼女が動き出して初めて触れる、物干し竿から垂れる水滴のような美しさだと思う。表面張力で凝結して、周りの風景をきらきらと反射して、わずかな風にふるふると震える。登校途中の女の子から「いってきまーす」という挨拶を学び、富司純子の「ご苦労様」という挨拶に腰のかがめ方を学ぶ。映画の名前をメモり、目の前の物をスケッチする。そうやって彼女は、周りの光景を取り込んでは束の間鮮やかに反射してみせる。板尾創路の言うように彼女は「きれい」だが、それは人形のように「きれい」なわけでは決してない。まばたきもせずじっと見開いた大きな瞳がきれいなわけではなく、くるくると周りを見回して自然にまばたきをするその瞳がきれいなのである。そういえば先述したシーンの、物干しから垂れた水滴がビニールの表面を打つぼたぼたという音がとても良かったし、多分この映画のペ・ドゥナの魅力はそれに似たものだったように思う。
 だからこそ、頻繁に挿入される「私は空気人形」という心情を告白するナレーションは、彼女の魅力と相反するもののように感じられて仕方がなかった。エアポケットのような場所から響くその声は、目の前の景色や物音と混じり合うこともなくただひとつの「真実」を宣告するかのようである。通常の会話のシーンの、呼吸を一拍おいて周囲のやりとりを取り込んで反射するような彼女の独特のリズムが生む説得力を、彼女の動きとリンクしないオフのサウンドとして鳴っているそれらの言葉たちは持っていない。同様のことが、ペ・ドゥナの水滴のようなかわいらしさと真に呼応する、まるで空気のようなARATAの話し声にも言える。目の前の画面に話している姿が映っているにもかかわらず、どこから聞こえてくるのかわからない浮遊感を持った彼の声。それが持つ魅力は、音と画が微妙にずらされて、ペ・ドゥナの心情告白に対するもうひとつのイデオロギーに成り下がってしまうとき、その他のエピソードをつなぐ語りの道具として利用されるとき、急激に色褪せてしまう。あらゆる語りからはみ出してしまう、隅田川を下る船の上のペ・ドゥナの素晴らしさと、それにただただ寄り添うARATAのたたずまいをこの映画はもっと持ち得てもよかったはずなのだが。

 劇中に何度か登場する東京の湾岸東部を捉えたエスタブリッシングショット。画面の奥には超高層マンションが建ち並び、川のこちら側には空き地に浸食されつつある住宅と工場のモザイク。歯抜けのように欠けた建物の並びの隙間から、なんの意匠も開口部も持たない、本来人の目に触れるはずでなかった青みがかった壁面が覗く。それを捉えるリー・ピンビンの目には、おそらくこの風景は貧富や美醜の対立の構図としては映りはしなかったことだろう。これは絶え間ない変化のほんの一瞬を切り取ったに過ぎない。この映画のクライマックスで、ロウソクの立ったバースデイケーキを前にして泣き笑いするペ・ドゥナは本当に美しいが、その美を、動きを止めた彼女の無表情との対比のなかに回収してしまうことは非常に不健全だ。この映画が全体として、彼女のまばたきのように、移り行く風景を反射してころころと表情を変える人間としての彼女のように、あることはできなかったのだろうか。


シネマライズ、新宿バルト9他、全国順次ロードショー中。

nobody 31号にて、ARATAのインタヴューを掲載。