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November 27, 2009

『2012』ローランド・エメリッヒ
結城秀勇

[ book , cinema ]

 この作品を見るために新宿ピカデリーへ向かう。MUJIの前の階段を上り3階のチケット売り場へあがるエスカレーターがある踊り場には、もう一台別のエスカレーターがある。プラチナルーム及びプラチナシートの利用客だけが使う専用入り口である。その入り口を使わない客は3階のチケット売り場に並ぶ。
『2012』の世界の終末は、それとまったく同じ仕組みでやってくる。そこではまずプラチナシートを買う必要があるのだ。買えなければどうしようもない。行列に並んでも無駄。というか行列の出来ている場所にたどり着くには、基本的に並外れた経済力が必要になる。そんな前提ではじまり、終わるこの映画をハッピーエンドに仕上げてしまうエメリッヒにはまったく頭が下がるね。
『2012』でもっとも期待していたのは、ジョン・キューザックの存在だった。『パトリオット』のメル・ギブソン、『デイ・アフター・トゥモロー』のデニス・クエイドに続く、「アメリカの父親」役に抜擢されたキューザック。地殻の変動を察知した地質学者でも、方舟の建造に関わったものでもなく、まして金持ちでも政治家でもない人間として唯一この大災害を生き抜くことが出来るのが彼とその家族(元家族)である。その職業は作家であるものの、過去の著作の発行部数は500部足らずだという。そして生活の糧に大富豪のリムジンの運転手をやっているらしい(どうやったら作家が大富豪の運転手のバイトができるのか? これだけの規模の大作で、主人公がここまで説得力のない職業であったことがかつてあったのだろうか?)。彼には『デイ・アフター・トゥモロー』のデニス・クエイドにあった、ある種のプロフェッショナルな尊厳は与えられていない。彼の仕事ぶりに関する描写は、わずかにこの大災害の専門家であるキウェテル・イジョフォーが「良い本だった」と述べる一言。
 エメリッヒは様々なインタヴューで、ジョン・キューザックの起用の理由について、知的で笑いのセンスがあって「どこにでもいるような普通の人間(an everyman)」を演じられる人物を探していたところで彼に行き当たったと語っている。この「どこにでもいるような普通の人間」には、特殊技能も、職業的な習性も求められてはいない。そればかりか彼には良心も自己犠牲も義憤もない。そうしたことはすべてキウェテル・イジョフォーに任されている。
 では「普通の人」たるキューザックは、158分間いったいなにをしていたのか、ということになる。全世界に先駆けて崩壊するロサンジェルス脱出から最後の瞬間に至るまで、彼が担わされているのは最も危険な場所を目撃するという仕事である。波打つようにひび割れ滑落していく地面のその最前線で逃げ続け、大噴火の瞬間に立ち会い、襲い来る噴煙を避けて地上を飛び立つ。そのいずれの瞬間でも、すぐ隣で無数の人々が死んでいくのを横目に通り過ぎる。それは「行動する人」から「見る人」へと登場人物が変化するというようなものではない。この、エメリッヒが「普通の人」キューザックに(そして私たちに)ひたすら見せ続ける風景の醜悪さといったらない。金もなく権力もなくなにか人類に貢献できる仕事もないやつは死ぬことすら許されず、延々ベルトコンベア式に運ばれる崩壊の風景を前に走り続けさせられる。
 背後からはマグマと地割れが追ってくる。前方には建造物や山々などの障害物がある。それをぎりぎりすり抜ける。世界の終わりの最前線。『ベオウルフ』のゼメキスならば、それを捉えるカメラの動きが決して登場人物のものとは合致しないようにしただろう。『クローバーフィールド』のマット・リーヴスならば、そのすべてを目撃できるのはカメラだけだと明らかにするだろう。しかしエメリッヒは「普通の人」にできることはせいぜいそのくらいだとでも言うようだ。だいたい「誰が生き残るか、クジで決めれば良かった。そうだったら公正だった」なんて大統領に呟かせるなんていくらなんでも「普通の人」をナメすぎだ。エメリッヒには、「公正」や「大衆」や「公共」を考える想像力が決定的に欠如している。


 余談ではあるが、彼らが生き延びた新世界はいったいいかなるものになるんだろうか。最後にイジョフォーによって救われた人々というのは、とりあえず全荷物をヴィトンのボストンバッグに詰め込んでチワワを連れて逃げてくるような人間たちばかりだった。どうしても、彼らを待ち受けているのは『26世紀青年』(マイク・ジャッジ)のような未来なのじゃないのかという想像がわいてくる。もしそうだとすれば、「アメリカの良心」イジョフォーでなく、「普通の人」キューザックが真に活躍するのはその時なのかもしれない。


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