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December 18, 2009

『ビッチマグネット』舞城王太郎
田中竜輔

[ book , music ]

 かつて芥川賞候補作『好き好き大好き超愛してる』は、その題名だけで選考委員の東京都知事を大いにうんざりさせたそうだが、ところで都知事は何に「うんざり」したのだろう? 『好き好き大好き超愛してる』という奇抜なフレーズの響きにだろうか。 そうかもしれない、だが、たぶんそうではない。おそらく氏が「うんざり」したのはこのフレーズの構造、つまり<「好き」+「好き」+(「大」+「好き」)+(「超」+「愛してる」)>という、ごく「普通」の言葉の積み重ねにおける徹底した無意味さに、であろう。
 『好き好き大好き超愛してる』というフレーズ全体の持ちうる「意味」とは、「好き」という一語、あるいは「愛してる」の一語と何が違うのか。もちろん1度目の「好き」と2度目の「好き」のニュアンスは異なるかもしれないし、「大+好き」になると「大」の分だけ異なるし、「超+愛してる」に至ってはもう完全に別の言葉である。けれども、この4つの言葉が連なることがもたらす「意味」には、決して特別なものはない。ひとつ目の「好き」以降の「好き」「大好き」「超愛してる」はほとんど言葉の「意味」の「無駄遣い」に過ぎない。自分のための無駄遣いは大好きだけど、他人の無駄遣いは許せないらしい御仁にとって、これほど「うんざり」することはなかったのではないか。
 舞城王太郎とはこのように「無駄遣い」という行為に躊躇しない、むしろそれに徹底して執着している小説家だ。たとえば『煙か土か食い物』以来、舞城ミステリ作品において過剰に消費される「謎」ひとつひとつの驚くべき無意味さは、この『好き好き大好き超愛してる』という題名における言葉の「無駄遣い」とほぼ同じ位相にある。それぞれがどれほどに精密に構築され、「意味」を内包しているものだとしても、それらは「物語」や「語り」に何か別の運動をもたらすわけではない。引き寄せるだけ引き寄せて、サンディエゴの病院で働く奈津川四郎よろしく「チャッチャッチャッチャッ一丁上がり」と一瞬でケリをつけたら、それで本当に終わりだ。『ディスコ探偵水曜日』の推理合戦で、ひとつの真相が解明されるたびにその前提となる「問い」が変容し続けていたのは、その事件の「意味」を値踏みする「名探偵」たちを皆殺しにするため、あたかも「物語」を「運動」させていたかのように彼らが用いた「言葉」(の「意味」)こそを抹殺するためなのだ。

 では、舞城は「奇妙」な小説家なのか? 否、おそらく彼は驚くほどに「普通」の小説家である。なぜなら、彼は「異様」な事柄を小説において取り扱うことにほとんど躊躇しない一方で、それら「異様」な事柄をどこまでも「普通」のものとして見つめようとするからだ。「言葉というものは全てをつくることができる」、けれどもそれは「物語や小説の中でなら」という制限の中でしかない、そんな『好き好き大好き超愛してる』の「ぼく」の「祈り」は、最新長編 『ビッチマグネット』の女子高生の「私」の「架空の物語っていうのは、本当のことを伝えるために嘘をつくことなのだ」(P26) という確信に引き継がれる。「言葉」は、「物語」や「小説」のなかでしか、「意味」という力を持たない。それゆえに小説や物語は「本当のことを伝える」ために「架空の物語」という「嘘をつく」必要がある。「物語」は、「言葉」は、総じて「嘘」でしかない。それを暴き出すために、舞城は「無駄遣い」に執着する。
 舞城作品においてもとりわけ「普通」の小説である『ビッチマグネット』でも、あらゆる出来事は「たんなる出来事」として積み重ねられ続ける。「私」は成長する、けれどもそれはたんに結果として描かれるものに過ぎない。「家族」は崩壊する、けれどもそれはひとときの「儀式」に過ぎない。弟は「ビッチ」にばっかりモテる、けどそれは磁石という存在に似た彼の「特性」に過ぎない……。『ビッチマグネット』にはいろんな出来事やいろんな物語がある、けれどもそれは「小説」だから書かれているだけに過ぎない。「でも弟よ、それは物語で、自分もしくは他人による捏造の可能性もあるのだ」(P206)という呼びかけは、「実は私、自分のセンスがいまいちな気がするのです」(同上)という懐疑をはさみながらも継続される。「人のゼロは骨なのだ」(P204)という断言は、そのまま「小説のゼロは言葉なのだ」と置き換えられよう。「ゼロ」に到達する為には無数の「肉」を貪らなければならないし、そのように「物語」を墓場に送り込まねばならない。そのような舞城小説の残酷なあり方は、『ビッチマグネット』においてもはっきりと引き継がれてはいる。しかしこれまでになくそのトーンはどこまでもポジティヴなものであり、爽やかな達成へと至っていると感じさせられるのだった。

 ただし、一方で『ビッチマグネット』は、その先にひとつの全く異なるエクスキューズを挟み込んでもいる。それは、「私」が始めて書き下ろした「物語」を廃棄するというエピソードだ。「私」は言う、「もう知らない人のお通夜やお葬式に勝手に入り込んだりしない」(P205)。この「私」の言葉は、ひょっとすると舞城王太郎という、「知らない人」の「死」を数多く描き続けてきた小説家自身の言葉そのものなのではないか? では彼(?)はこれからどうするのか? と勘ぐってみたくもなるが、果たして・・・・・・。