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December 29, 2009

『アバター』ジェームズ・キャメロン
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 非3D上映にて。
 脊椎の損傷によって下半身不随になっているサム・ワーシントンに、上司である大佐が「任務に成功すれば足を与えよう」と言うとき、問題になっているのは大地に接するふたつの足ではなくて、その間にあるもう一本の足であることは明らかだ。車椅子に乗ったサム・ワーシントンには、アクションの欠如によるフラストレーションは感じられない。それよりもむしろ、苦み走ってなにかを思い詰めたようなワーシントンの顔に浮かぶのは、兵士としては使い物にならなくなったいまも海兵隊至上主義者である彼の、そのマッチョさの裏返しとしてのインポテンツへの敗北感だと言えるだろう。彼の運動への渇望は初めてアバターに乗り込んだ瞬間に解消されているのだ。大写しになった、むき出しの土を踏みしめる足の指。大地との接合。彼をよりあのゲームの中へと駆り立てるもっと他の理由がなければならない。
 デヴィッド・クローネンバーグは『イグジステンツ』において、仮想世界へのアクセスを文字通りの接続として描写した。快感(苦痛や恐怖と言い換えてもいいが)を得るために、肉体に穴を開けプラグをそこに挿入していた。ところが『アバター』においてアバターに乗り込むためには、なにか機械的な覆いを掛けられこそすれ、人体への物理的な陥入は起こらない。そして観客の誰もが気づくように、アバターを操縦するためのあの容れ物は、ワーシントンの双子の兄が火葬されるときの棺桶と酷似している。彼らは仮想世界とのアクセスのために小さな死を経験する。もはや『イグジステンツ』でのように快感を得るために接合するのではなく、彼らは接合の前提として快感を得ているのである。イクためにヤルのではなく、ヤルことを求めて一度イっておくことが必要となるわけだ。
 だからセックスの理想郷たるパンドラの自然は、あらゆるものが接合の対象になる。馬、鳥、草木や大地まで、規格の統一されたコネクタを持っているので、なんとでもセックスできる。ヤリたい放題。素晴らしい世界なんだろう。だがそうした欲望に生きる世界と、なんだかよくわからないがただ金になるという金属のために彼らを駆逐する人間たちの価値観とはいったいなにが違うのか? 殺生を嫌ってセックスばかりしている方が偉いのか?ワーシントンの操るアバターと酋長の娘が(初めてコネクタを使わずに)セックスをしたことがこの理想郷の崩壊の引き金となり、その後人間たちに逆襲するためにナウシカばりに自然の力を使うあたりでだいぶ閉口する。
「I see you」と言う、あの本来同じフレームに同居するはずのないふたりを捉えた切り返しが真に感動的であるためには、断絶が必要だったのである。だいたいあらゆるものが同じ規格に統一されてる世界なんて楽しいのか? 『12枚のアルバム』のときに書いたが、つながらないものをつなげる、そこに感動があるんじゃないのか。


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