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January 30, 2010

『永遠に君を愛す』濱口竜介
結城秀勇

[ architecture , cinema ]

 ああしておくべきった、あるいは、ああすべきではなかったという、日常私たちが無批判に繰り返す些細な誤った振る舞いを、濱口竜介の作品は上映時間いっぱいをかけて極限まで高めていく。結婚式の3ヶ月前にあった浮気を些細なこととみなすかどうかは意見の分かれるところだろう。というか、『永遠に君を愛す』の登場人物は誰ひとりとして些細なことだとは認識しない。だがここであえて些細な過ちと呼ぶのは、結婚式3ヶ月前の浮気が結婚式3ヶ月前の浮気のままに、しかしまったく別の重みを持ったものに変容する瞬間がこの映画にはあるからだ。
 新婦、新郎、新婦の両親、新郎の母、浮気相手、そして神父、彼らはそれぞれに、このあまり道徳的とはいえない振る舞いについて述懐する。その出来事をどのくらいの重みを持ったものとして認識するか、その事実に対してどうリアクションすべきか、目の前に迫った状況にどう対処すべきか、意見はみなそれぞれに違っている。違ってはいるが、そのひとつひとつは各人の内面の規範によるものでしかない。違ってはいるが、彼らが持つ規範は同じものを共有している。誰も結婚式3ヶ月前の浮気なんてしてもいいじゃない、とは言わない。悪いことではあるのだが、結婚式3ヶ月前に浮気した人間と結婚してはならないという法律はない。悪いことではあるのだが……。道徳という私たちの柔らかな部分を静かに揺さぶる、この微妙な悪は、振動をゆっくりと伝播させていき、しまいにはあらゆる人々を決定不能な状況にまで追い込む。
 その後に観客を待つ展開は、一体なんだったのだろうか。許し、でも、和解、でもおそらくない。彼らは道徳を法の域まで高めたのだ。彼らは不道徳なことを罪の域まで追いやったのだ。これは単なるレトリックではない。内面的な規範が、外在的な規範に変わった瞬間があるのだ。その瞬間を厳密に言い当てることはできない。だが、それ以前のシーンにもその萌芽はあった。個人的なことだが、家族同士が話し合う中に、突然神父が介入してくる瞬間、大島渚の『絞死刑』を思い出した。大島は見えざる権力の体制を暴くために様々な儀式を繰り返し導入してきたが、濱口が『PASSION』に引き続き結婚の問題(特に今回は結婚「式」)を描くことにはそれとさほど遠からぬなにかが潜んでいるのかもしれない。
 新郎と新婦が隣室に移動して奥の部屋へと続く扉を閉める。彼らがそれぞれに言葉を交わす。その時にはすでに、結婚式3ヶ月前の浮気はそれまでとは違った重みを得ている。彼らは「永遠に愛す」だろう。『JLG/自画像』の最後の言葉ではないが、そこには約束があるからだ。
 だが彼らが変化したのだろうか。いや、そこで変わるのは観客の方なのかもしれない。そこで、これはいい映画だ悪い映画だという内面的な規範を放棄して、ただ、これはシネマだという外在的な規範を得るのかもしれない。


「未来の巨匠たち」にて上映