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February 15, 2010

『(500)日のサマー』マーク・ウェブ
結城秀勇

[ cinema ]

 「彼女のキスで俺は生まれ、彼女が去って俺は死んだ。彼女が愛した数週間だけ、俺は生きた」。そんなセリフを『孤独な場所で』のハンフリー・ボガートは脚本の中に挿入したが、主人公トムにとっての500日間が意味するのもひとつの「生」のサイクルだろう。いや、「生」というほどハードボイルドなものではとてもないので、タイトルどおり、ひとつの季節を彼は通過する、というくらいにしておくのが適切か。渡辺進也はこの映画を見て「ラブコメというより青春映画ですね」と確か言っていたような気がするが、それは正しい。「この映画はボーイ・ミーツ・ガールの映画だが、恋愛映画ではない」とナレーションが宣言するとおり、この映画の主たるテーマはトムの成長にあるからだ。
 だが私がこの映画を興味深く見たのは、三度挟まれるナレーションが非時系列な展開を方向付けしていく、トムの成長物語という側面ではない。そうではなく、500日間を経た後で振り返られる過去の、その非時系列的なあり方そのものだ。トムとサマーが出会った1日目から、彼にとってのひとつの季節が終わる500日目まで、彼らが何度喧嘩して仲直りしたのかなどわからない。もしかしたら彼らの関係における決定的な瞬間はすべてここで描かれていて、トムの目には非連続的なものに映るサマーの感情の変化の理由はきちんと脚本に書かれているのかもしれないのだが、移り変わる日付に特に注意も払わずに見ていると、ああまた喧嘩してる、ああまた仲良くしてる、といった感じで500日間におけるあらゆる 1日1日が等価に過ぎていく。サマーを演じるズーイー・デシャネルの、光の加減で空色にもエメラルド色にも見える目の色のように、トムの記憶を通じて断片的に描き出されるサマーという女性はまったくつかみどころがない。
 しかし、そんなものだよな、と思うのだ。「僕らの関係は一体なんなのか」「何でそんなことする」と繰り返し問うトムに対して、サマーが「ハッピーならいいじゃない」「したいからそうする」と答えるたび、500日間のうちの任意の一瞬が現在として通過する。過去は、500日間の1日目から順に色褪せていくわけじゃない。嬉しさのあまり出勤風景がミュージカルになってしまう1日も、 IKEAで売り物の家具を舞台に小芝居をする1日も、リンゴ・スターのレコードを見せても彼女が無反応な1日も、ふたりで大声でペニス!と叫ぶ1日も、因果関係から解き放たれて独立して共存する。
 この作品の最後で、トムは500日間という時間を切り離し囲い込んでしまうが、それでもこの先も、ある1日が突然暴力的に回帰してくるのを妨げることはできないだろう。彼がサマーへの思いを断ち切ろうが断ち切るまいが、たいした問題ではない。これは彼の人生のうちの500日間なのではなく、500日間という記憶のあり方そのもののうちに彼は生きたのだから。「記憶がわれわれのうちにあるのではない。われわれのほうが、記憶ー<存在>のうちに、記憶ー世界のうちに生きているのだ」(ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』)。


シネクイント、TOHOシネマズシャンテ他にてロードショー中
nobody issue32 特集「She's so lovely 現代のコメディエンヌに向けて」でも取り上げています。