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April 11, 2010

『映画は爆音でささやく99-09』樋口泰人
結城秀勇

[ book ]

「MR ハイファッション」および「ハイファッション」の連載を収めた「boidと私と映画の血と汗と涙の記録VOL.1」と「VOL.2」にとりわけ驚いた。連載中そのほとんどに目を通していながら、厚みを伴った物体としてまとまったこの本を今回手に取って、改めてその異様さを発見する。多少意図的にいくつかの文章の冒頭を抜き出すなら、「爆音上映という企画をやっている」、「数年前、『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局刊)という本を作った」、「以前、本コラムにて見たい映画が見られない、という原稿を書いた」、「50歳を超えた年齢のせいなのか、さまざまなことが面倒になり、実はもう映画も見たくない、そんな日々が続いている」。ここで見事にスコンと抜け落ちている「私」、連載として読んでいればとりわけ断る必要もなく了解可能なはずの主体の不在、それを無意識に補完して読み流していたのだが、その「私」にはすべて違った複数性と単独性が潜んでいたのだ。爆音上映をやっている私(たち)、『ロスト・イン・アメリカ』を作った私(たち)、見たい映画が見られない私(たち?)、それをコラムに書いた私(たち?)。
「まえがき」にて記される「他力本願」というモットーが、文体としてそこにある。「常に新しく、常にひとつであり、常に多数である」ような波に接することで初めて生まれる私。初出媒体の多様性の違いから、前著『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』に比べて遙かに多様な「私」の顔をこの本では伺うことが出来る。それぞれの文章は全体として年代順に並んでいるわけではなく、いくつもの固有名詞がこの10年の時間の塊の中で撹拌され、通り過ぎ、そしてその中のいくつかの名前は再度揺り返しの波の中で姿を現す。第一の波と第二の波がまったく同じものであるはずがないのは、言うまでもない。
 しかしそうした波の喩えなど、黒沢清による比類なきオビ文にある「ブルドーザーのように〜〜猫にエサでもやるがごとく」という絶妙な比喩を前にしては屋上屋を架すものでしかない。にもかかわらずこのような駄文を書き連ねねばならないのは、本の形をとった波の群れであり、ひとつのエコーチェンバーでもある本書は、「世界の風呂場化」および波の広がりを要請するからである。それはなにも来るべき変革や新しい世界のためではない。既に「移行の過程ではなく、移行の後」(補章 サーフィン・バードーー廣瀬純との対話)なのだ。「移行の後」での生活の場を作り出すために、樋口泰人ではない私(たち)が本書を基にせっせと屋上屋を架すならば、『コロッサル・ユース』の冒頭に現れる増築に増築を施したような歪んだ建物めいたものをつくりだすことができるかもしれない。


nobody issue33 では『アバター』についての青山真治×樋口泰人対談を掲載!