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May 11, 2010

『シャッターアイランド』マーティン・スコセッシ
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 もちろん思い出してみれば『アリスの恋』のハーヴェイ・カイテルや『タクシー・ドライバー』のロバート・デニーロもそうだったのだが、マーティン・スコセッシのフィルムにおける男性主人公のパラノイアは、どこから来るのだろう。レオナルド・ディカプリオが、スコセッシ映画の主人公に迎えられてからも、彼は常にパラノイアを生きているように感じられる。「感じられる」どころではない。たとえば、『シャッターアイランド』では、犯罪者で精神病患者たちが幽閉された島に赴くディカプリオは、極度の「船酔い」に悩まされ、トイレに顔を埋めている。「水が苦手なんだ」という彼の台詞は、もちろん、この後のこのフィルムの物語を暗示しているのだが、やつれて苦しそうなディカプリオの表情は、このフィルムばかりに特殊なものではない。『アビエイター』でも『ギャング・オブ・ニューヨーク』でもディカプリオのこの表情をぼくらを見たような気がする。
 ヴェトナム以後のアメリカ社会そのものがパラノイア状態にあったときなら、たとえば『タクシー・ドライバー』のロバート・デニーロは大きな共感を得たろうが、あれから40年近く経ってもスコセッシは、同じような男性主人公に執着する。これほど同種の主人公に執着する様を見ていると、こうした主人公はたまたまスコセッシが自身のフィルムの主人公として描くというよりは、こうした主人公こそまさにスコセッシそのものなのだ、と確信できてしまう。同じ事象の多様な表層を何層にも分けて描き続け、その反復によって物語を語るという近代経済学から次第に逸脱を始め、物語そのものが遅滞と停滞を反復する。たまたまではない。それこそがスコセッシのフィルムの特徴なのだ。その尋常ではない執着を人は容易に受け入れることができない。スコセッシにとって、そうした尋常ではない執着がごく自然なものに思えるのかも知れないが、それは、やはりどうしても「尋常ではない」という形容句が付属してしまう。
 映画狂出身の映画作家ならではの、フレームやキャメラワークの素晴らしさ──たとえば船上からこの島をワンショットで捉える美しさはどうだ!──と、この尋常ではない執着のアンバランス、それこそがスコセッシのフィルムのエンジンなのではないか。適切なワンショットを撮影すれば、そこに説明など不要だ。だが、偏執狂スコセッシは、そのショットに何重も説明を付加する。どのショットをとっても素晴らしいの一語だが、それが幾重にも折り重なると、ワンショットの透明さが消去され、フィルム全体に亘って不快な混濁が支配するようになる。
 『ニューヨーク・ニューヨーク』『エイジ・オブ・イノセンス』といった決して自らの企画ではないフィルムなら、彼は自身の発露を押さえて映画に奉仕することができるのだが、『救命士』などに代表されるような自らのフィルムになると、彼は自分自身を露呈させることを厭わない。このフィルムにおけるディカプリオを見る居心地の悪さは、スコセッシ自身が感じている居心地の悪さなのだろう。


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