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October 12, 2010

池部良追悼
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 池部良が亡くなった。享年92歳とのことで、大往生だ。
 とりわけ最近になって、このハンサムな2枚目スターに興味を持っていた。かつて、この俳優が現役の時代──といっても、高倉健の傍らにいつもスッと立っている彼の図像ではなく、テレビを含めて、俳優・池部良が際立っていた、それ以前のことだ──、どうもこの俳優の演技が好きになれなかった。好きになれなかった、という表現は正しくない。この俳優の演技がうまいと思えなかった。浅はかだった。宇野重吉だの滝沢修だのといった新劇の名俳優の演技を愛でる両親の許で育ったためだろうか、演技というものがさっぱり顕在化しない池部良を、ただのハンサムな男優にありがちの大根だ、と思ってしまっていた。浅はかだった。
 確かに池部良は、台詞に大仰な感情を込めることはなく、台詞を言葉にするだけだった。顔の表情を変えることなく、手を動かして台詞の意味内容を補助するわけでもなく、彼はぶっきらぼうに台詞を口にしていた。少年のぼくにとって、すごい俳優というのは、何よりも素晴らしい演技力というスキルを持っているものだと思い込んでいたのだ。
 多くの映画を見て学んだのは、ジョン・ウェインやハンフリー・ボガートの演技が、アクターズ・スタジオ系の俳優たちの演技よりも素晴らしいということだ。映画でも、そして、おそらく舞台でも同じことだが、素晴らしい演技を持つ俳優にとって重要なのは、もちろん少々のスキルは最低限必要だが、それよりも、そこにいることの存在の大きさを伝えられるかどうかということだ。池部良にもそれが当てはまる。どんな映画に出演しても、彼はそこに確実に存在していた。彼が際立っていたのは、彼の演技力によるものではなく、彼が、そこにいることの存在の大きさだった。『早春』で、別に何も口にするわけでもなく、長い病欠の同僚を見舞って枕元にいて、同僚の母を演じた長岡輝子と何気ない対話をするときの、彼の存在の大きさは、誰にも到達することのできないものだったと思う。その意味で、彼ほどスクリーンに愛されたハンサムな俳優はいなかった。佐田啓二よりも三橋達也よりも、池部良が最高だ。その彼の「そこにいることの力」を最大限に利用したのが、高倉健だったのではないか。雪の中を歩く。表情を変えずに歩く。そうした「演技」の方が、これ見よがしに演技力を誇示する演技よりも、ずっと困難であることをぼくらは池部良によって学んだ。
 もちろん、最近の彼は映画に出演することもなかったから、その代わりに、ぼくらは、彼が多く書いた食べ物に関するエッセーを読むようになった。銀座の「そば処よしだ」は、コロッケそばで名高いが、最初、そんなゲテモノが食えるか、と思いながらも、店主の薦めで、コロッケそばを食し、病みつきになってしまう池部良のエッセーに誘われるように、ぼくも、銀座七丁目の「そば処よしだ」で1000円のコロッケそばを食べたのを思い出す。