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November 30, 2010

『行きずりの街』阪本順治
梅本洋一

[ architecture , cinema ]

 志水辰夫の原作を読んでいないし、水谷豊主演で一度テレビドラマ化されたようだが、それも見ていない。何となくこの映画を見た。平日の午後の横浜ブルク13という新しいシネコンはガラガラだった。
 見る者に少しずつしか物語のキーを与えない編集が続く。きっと複雑な話なのだろうと思う。田舎の病院で呼吸器を付けている老婆。見守る波多野(仲村トオル)。老婆の遠縁にあたる娘を東京へ探しに行く波多野。なぜ?
 確かにミステリー大賞を受賞したという原作には、たくさんの「なぜ」が仕掛けられているし、このフィルムが冒頭の30分ほどで刻むリズムは、その「なぜ」が増幅されている。塾教師の波多野が「なぜ」これほどこの少女に執着するのか? 少女が短期間務めていたクラブで出会う大男は「なぜ」波多野を知っているのか? なぜ?なぜ?なぜ?
 そして波多野はバーに入り、そこにいる雅子(小西真奈美)に再会する。この女性を見つめるだけの波多野の視線をぼくも共有する。その辺りから、ぼくらの「なぜ」はどうでもよくなってしまう。周囲の登場人物たち──それなりの存在感のある形で佐藤江梨子や杉本哲太、そして窪塚洋介などによって演じられている──が次第に遠くなって、ぼくらの眼差しのほとんどが仲村トオルと小西真奈美、否、波多野と雅子に釘付けになってしまう。ふたりが12年前に別れた夫婦であることが理解され、ふたりが、この再会をきっかけに、もう一度「よりを戻す」。深夜、ふたりは女のマンションに行き、雨に濡れた男にシャワーを勧め、その間に、女は買い物に出る。再び始まる諍い。男がドアを開けて外に出ようとする瞬間泣きじゃくる女。女の顔のクロースアップ。女の肩に掛かる男の手。唇を求め合うふたり。強く重なる唇。もつれて倒れるふたりの身体……。無限大に広がっていた距離が一気につめられ、ふたたび身体を重ねるふたり。このシーンの演出に舌を巻く。
 もちろん、そこに物語はあるのだが、ぼくは、このシーンに釘付けになって、物語を読み取ることをまったく忘れてしまった。ふたりの身体によってフレーム内が充足し、フレームの外に流れていたはずの時間や多くの事件の顛末など、まったく重要ではなくなってしまう。それにしても小西真奈美の美しさは尋常ではない。最初に見える和服姿で振りかえる彼女。洋装で妖艶な彼女……。仲村トオルが感じているだろう女性を見つめることの苦悩──それを、ぼくらの共有してしまう。久しぶりに演出の強度という言葉を思い出した。