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May 3, 2011

イタリア映画祭2011レポート 2011年4月29日
隈元博樹

[ cinema ]

Il primo giorno 
 GWに開催されるということで毎年恒例のイタリア映画祭も今回で11回目。今年はなぜか去年のCL決勝でインテルのスタメンにアズッリの選手がいなかったこと(マテラッツィは途中出場したけども)を思い出したり、その頃ロブ・マーシャルの『NINE』がハリウッド資本で製作されたり、あれやこれやと反芻しながら気がつけば有楽町・朝日ホール。日比谷の高架下近くにあるピザトースト発祥の店(らしい)「紅鹿舎」のブレンドでひと息ついたあと、映画祭1発目をマリオ・マルトーネ『われわれは信じていた』で始める。原題は『Noi credevamo』。わざわざ省略可能な「Noi」(=われわれは)を残すことで統一運動の敗残者によるラストの独白をより際立たせている意図が窺える。1861年の共和国による半島統一から今年で150年を迎えるイタリアの記念碑的作品であるこのフィルムは、「マッツィーニ」、「フィラデルフィ」、そして「ガリバルディ」などの数多な政治的・闘争的固有名詞の断続的な聴記号運動はもちろんのこと、精神的・肉体的なリゾルジメント(再興)運動を信じている(=「crediamo」)登場人物たちが壮大な時代のうねりによってまさに信じていた(=「credevamo」)かつてのものへとネガティブに変貌していく歴史超大作-3時間前後の尺を備えた年の瀬のいわゆる「イタリア版お正月映画」-といったところだろうか。
 だから過去にもヴィスコンティの『山猫』やベルトルッチの『1900年』、最近ではファエンツァの『副王家の一族』のように、北部あるいは南部から押し寄せる闘争や退廃の波に溢れた19世紀の非イタリア時代を出発点に歴史の「刷り直し」が行われてきたけれども、この『われわれは信じていた』はそれらのフィルムとはどこか別の作用によって成立しており、今回その企画が舞台演出家でもあるマルトーネに委ねられたということにすぎないといった印象を拭えない。ただ彼のインタビューからもわかるようにイタリア近代史を舞台上の産物として特化することに精を出していることは顕著だ。ヴェルディのオペラを使うこと、物語内容を4部構成にすること、アクターズ・スタジオ方式の自然主義的スタイルではなく演技を全面に押し出す云々によってはっきりとその意志が伝わってくることは、一形式の問題として興味ぶかい一端ではあった。

『われわれは信じていた』
【東京】 4月29日(金・祝) 14:15 / 5月3日(火・祝) 17:45
【大阪】 5月7日(土) 17:45

イタリア映画祭2011ホームページ