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June 10, 2011

『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』代島治彦
萩野亮

[ book , cinema ]

「土本典昭お別れの会」のようすを映した冒頭、壇上の熊谷博子は、次の弔辞に立つ人物をこのように紹介する。
土本さんの容態が少し悪くなり、皆さんが駆けつけたときがありました。土本さんは大津さんを見つけると、必死に起き上がろうとしながら、大津さんの手を強く握り締め、こう云いました。『ぼくはきみに会えて本当に幸せだった。きみのおかげでぼくの人生はゆたかなものに変わった』と」。
 そうして前に立った大津幸四郎は、故人との出会いを訥々と語り始める。


『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』は、日本映画史に比類のない足跡を残したふたりの映画人の足取りを、いや、まさに「まなざし」の道程を、たどってゆく。岩波映画製作所時代に始まり、「青の会」や小川プロとの交流・協働を経て水俣シリーズへと結実する50年代後半からのおよそ20年間は、「政治の季節」と撮影機材の技術革新(シンクロ撮影の実用化)という時代背景と共振するようにして、日本のドキュメンタリー映画が現代映画へと踏み越えてゆく、重要な契機をしるした時代でもあった。そのひとつの境界線は、作中でも十分な時間が割かれているように、土本典昭がはじめて自主制作した『留学生チュア スイ リン』(65)に他ならなかった。


大きく『チュア スイ リン』以前/以降に分かれますね。以前というのは、ドキュメンタリーとは必ずしもいえないようなシナリオを求められた。〔……〕ところが、出来事はどうなっていくかわからないわけです」(土本の発言より)。
 脚本という設計図をもとに映像化してゆくのではなく、変わりゆく状況に身を置きそのさなかにカメラを置くこと。つまり脚本=設計図はあとから作られる。この変化に古典的ドキュメンタリーから現代ドキュメンタリーへの重要な一歩がある。これは、60~70年代を通じて隆盛したアメリカのダイレクト・シネマ、フランスのシネマ・ヴェリテと厳密に同時代的な運動であり、68年に始まる小川プロの三里塚シリーズとももちろん共振している。その三里塚でカメラを廻していたひとりが、大津幸四郎だった。


国家権力とその行使の対象となっている人々に分かれているときに、いったいキャメラはどこに位置すればよいのか。弾圧されている側につねに立たなければいけない、ということで、キャメラの立場を明確に模索していった」。
 小川プロは、大津幸四郎は、厳然と農民側に立って機動隊にカメラを向けた。ここでも、どう変化するかわからない状況の、まさにそのさなかにカメラが置かれていたのだ。『留学生チュア スイ リン』で方法論的転回を経た土本と、三里塚を経験した大津が『パルチザン前史』(69)で出会ったことは、だからほとんど必然ともいえる歴史の幸福だった。
 映画の断片を差しはさみながら両者の証言を巧みに切り返してゆくこのフィルムの後半部分は、実にスリリングである。作られた映画が引き受けるべき「罪悪」を言葉少なに語る大津と、このフィルムで共感のまなざしを送った革命家のその後を鷹揚に語る土本の切り替えしは、何ともふたりの性質の違いを告げていておもしろい。それ以上は踏み込まれないが、土本と大津の「作られた映画」の引き受け方が、ここで微妙に隔たりを見せているようにも思える。


 そうしてふたりは水俣へと分け入ってゆく。ここでふたりが言葉を尽くしているのは、「映画が何を撮るべきか」という、ドキュメンタリーの根源的な倫理性に他ならない。水俣病の現実に対し、どのようにカメラを向けられるのか。土本は、「彼らの人間を撮ればいいんだとわかったとき、楽になれたんです」と語り、大津も「彼らは水俣病の患者である前に漁民なんです」と述べる。そして水俣病の胎児性患者の少女をどのようにして撮るべきかをめぐって、ふたりの言葉はいっそう慎重さを増す。土本は「(身体が)引きつった状態にあるものは、これは違うと思って結局全部使うのをやめたんです」と述懐し、同じ少女の裸体を撮影したユージン・スミスの写真に対し、「水俣病がどんなものかは写っていても、あれでは人間が写っていない」と大津は批判する。そして「ドキュメンタリーには、撮ってはいけないものがある」と結論する。ここでふたりの態度は、まなざしは、完全に一致している。このとき映画という営為は、人間が他者に向けるべき視線についての、思考そのものと化している。
 
 土本典昭はすでにこの世にいない。けれども『まなざしの旅』は、彼の不在を描くようなことにはまるで興味をもたない。たしかにこの映画のために記録されたのではない彼の語りは、上手いとはいいがたいインタビューで熱心に耳を傾けようとする若い学生たちに向けてじっくりと言葉を重ねる大津幸四郎の映像と切り返されることで、いっそうアクチュアルに甦っている。土本の遺影に重ねられる彼の言葉で、この映画の、ふたりの旅はしめくくられる。
現実にどう着眼していくか、いかに新しいものを発見していくか。これはぼくの内心のドラマであり、スタッフの旅の記録になっていると思っています」。(文中敬称略)


『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』
6/3(金)〜6/16(木) オーディトリウム渋谷(モーニング&レイトショー)


反権力のポジション―キャメラマン 大津幸四郎
6/3日(金)〜6/16(木) オーディトリウム渋谷


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