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July 9, 2011

『MORE』 伊藤丈紘
槻舘南菜子

[ cinema , cinema ]

 可能性ではなく不可能性からしか自分の未来を想像できなくなりはじめる頃。振り返るにはまだ早いであろう生々しい過去の時間の中にありえたかもしれない現在を夢想せずにはいられない頃。新しいことを始めるには少し遅い。でもまだ何かを諦めてしまうには少し早い。そう、もう一度やり直そうと思えば、可能性はゼロではない。

 『MORE』の主人公は3人の女性だ。OLのユリ(小深山菜美)、フリーのカメラマンであるモエコ(奥田恵梨華)、コールガールのアイ(三村恭代)。20代の終わり、今ある場所に留まることに恐怖を感じながらも、彼女たちはなかなか踏み出せないでいる。変わりたい、いやこのままでいたい。変化への欲望と現在への執着。彼女たちはどちらに向うべきなのかわからないまま引き裂かれているように見える。
 どうすれば私たちは存在することができるのだろうか? 彼女たちは、それぞれにこの答えを見いだそうとするだろう。ユリは彼女にとって凡庸さとはかけ離れた存在である姉(河合青葉)と恋人(岩瀬亮)の存在よって。モエコはカメラを通じて現在を切り取ることによって。アイは自分を通過していく男たちと触れ合いによって、自分が今ここに存在することを証明しようとする。みんな誰かを必要としている。見つめ、見つめ返してくれる誰かを。でもそんな誰かは簡単には見つからない、その残酷な事実をこのフィルムはわたしたちにそっと教えてくれる。
 突然やってくる過去の応酬。現在を生きているはずの彼女たちは、それぞれに違った形で過去に遭遇する。ユリにとっては子供時代の姉との記憶、モエコはかつての恋人(斉藤陽一郎)、アイは次回作に行き詰まった小説家(足立智充)に自身の過去を語ることで、もう一度、かつてと対峙することを余儀なくされる。物語の後半、まるで彼女たちは一人の登場人物かのように、一つの感情を分かち合っているように、涙を流す。別々に生きていたはずの三つの時間が同時に動き出す。かつては彼女たちの現在を覆い尽くし、次の瞬間、泡のように目の前から姿を消すだろう。彼女たちは取り残され、立ち尽くす。でも、大きな絶望とともに画面に広がる清々しさは何なのだろう。
 彼女たちを襲うちょっとした災難ーー恋人から突然切り出される別れ、親友の裏切り…そこにあるのは小さな、小さな葛藤だ。だからこの映画には決定的な何かが起こっているようには見えないかもしれないし、出来事を通過した彼女たちに大きな変化を見いだすことは難しいかもしれない。でも、とるに足らないかのように見える出来事が、彼女たちにとっては何よりも重要で、愛おしくて、大切な瞬間なのだ。そのかけがえのなさを、彼女たちとともに、通過し、体験し、いつしか自分の姿が重なっていることに気づく。

 前作の『ZERO NOIR』を見た時、自分のかつて見た愛すべき映画たちがその作品の中で躍動していることに本当にびっくりしてしまった。そこからいくつかの固有名を読み取ることはとても簡単なことだった。しかし同時にその完成度の高さとは裏腹に私にとっては感情の入り込む余地がないようにも思えていた。『MORE』はどうだろう? 確かに監督である伊藤丈紘にとって特権的な固有名が存在することは誰が見てもはっきりとわかる。でも、誰かと一緒に生きることの痛みであり困難を、こんなにも十全に見せてくれる映画を、私はそんなには知らない。そして私はこの映画をとても好きになった。出来るだけ多くの人がこの作品を見てほしいと思う。だからこそ、私は、見つめ返すことにした。

東京藝術大学大学院 映像研究科映画専攻第五期修了制作展
2011年7月7日(木)〜15日(金) 渋谷ユーロスペースにて連日21時よりレイトショー公開

*本作『MORE』は7月10日(日)、14日(木)に上映予定