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July 23, 2011

『MISSING』佐藤央
濱口竜介

[ cinema ]

たった一つの声  

 
 役者たちとのワークショップから生まれた前作『Moanin’』(10)を見れば、佐藤央が役者に課す最も根本的な演出とは、発話の統一であるのは明らかだ。現実には様々な声質、発声が溢れるのがこの世界であるわけだが、佐藤央はその多様さを認めない。いや、実際のところ単に一見多様であるに過ぎない「個性」としての声を佐藤央は抑圧する。「発声」でなく「発話」と言うのは、佐藤央の演出が、おそらくは細かいブレスの入れ方(逆に抜き方)や、抑揚(その排除)などにまで及んでいるからだ。そうしてできあがる発話は、我々の現実のものとは違うが、芝居がかっている、というのとも違う。それは一見(一聴)表面的な、感情を欠いた発話である。この声は『Moanin’』においては、それ自体魅力を発するというよりも、映画の成立条件として機能している。集団でその発話が為されるそのときに立ち上がるのは、現実と拮抗するフィクション世界としての強度である。
 『MISSING』においても、その佐藤央の演出アプローチは、特にヒロインの女と子どもに集中して見える。残り2人のメイン・キャラクターと呼んで差し支えない老人と「因果」を妄執的に語る女は、既にほとんど変えようがなく自らの声を持っている。それは『MISSING』に現れる世界のひびでもあるだろう。佐藤央は、そのひびから(今までになく)『MISSING』へと現実的なものの力が流れ込むことを積極的に許している。特に老人を演じる堀尾貞治の発話は、佐藤央的な発話ではないが、声自体に歴史の厚みをまとわせて感じられる極めて魅力的な発話である(そして、その声を捉えるキャメラポジションの選択こそが佐藤央演出の白眉でもある)。
 一方で、佐藤央的登場人物として選ばれたヒロインと子どもの声は、作品の中である種の成長と呼びたくなるような変化を見せる。それは単に物語上のことに留まるものでは一切ないけれども、物語に歩調を合わせて発展している。


 物語の始まりから、彼女らは「お前のせいだ」という声を自らの内に背負わされた者としてある。しかし、それは正確には自責というのとは違う。それは自分の外に支配的な「ある中心」を措定したときにやって来る声だ。この物語では、その中心は「因果」とも呼ばれている。
 一般的に映画の物語を構成する「因果」の連鎖は単一的に処理されて呈示される。何が原因で、何が結果か観客にはっきりと知らせることが物語りの方法でもある(実際、映画の上では明らかに、彼女の行動が息子の死を引き起こしたように解釈できる)。だが、現実には複数の因果が重なり合っており、何が原因で今ある結果が起きたのか、もしくは起きるのかは混濁している。それを完全に同定することは実際のところ不可能であるが、結果に対して主たる原因と思われるもの、その担い手には「責任」という言葉が付される。時にこの世界は「責任」のなすり合いの様相を呈する。
 この映画で問題になっているのは、「責任」の有無である。わずかなことにも自分が責任を持っていると思う態度は、一見決然として見えるが、やがては因果を語る女のように、まるで世界のすべての原因が自分であるような誇大妄想へも簡単に至る。大きな「因果」の一部として自己を滅することで、彼女は世界の神になろうとしているようにも見える。
 ヒロインと子どもはそうしない。責任を選び取る。一体、何が自分の責任かわからない中で、何を自分の責任とするか、しないかはほとんど恣意的と言ってもいい判断、もっと言えば決断によるものだ。しかし、それこそが自分の外に中心を措定せずに、ある個人が生きるということでもある。映画の終盤、少年(もはや子どもとは呼べない)が1人で海へと入らなくてはいけないのだとしたら、それが彼の責任だからだ。それはヒロインの責任ではない。このときヒロインが彼に対してかけ得る言葉はただ「がんばれ」というものである。ただ、それは人に責任を押し付ける言葉としては発されていない。実際その言葉が少年に力を与えるのは、ヒロインの発話がもはや「表面的」とも「無感情」ともほど遠いものであるからだ。彼女らもまた一見個性的な声を持つ者であったろうけれども、佐藤央はその声を抑圧し、排除する。その声が、真に個人的な声とはとても言い難いものだったからだ。佐藤央の発話の演出は、ここで明らかに新たな地点に達した。彼女は自らの「たった一つの声」を取り戻す、そうとしか形容し得ない事態がここにはある。それは現実と映画の区別がなくなる地点でもある。
 佐藤央はおそらく自作を、100年先に見られても構わないように常に作っている。しかし、それは今現在それが見られなくていい、ということではまったくない。「がんばれ」とか「がんばろう」という言葉がほとんど腐臭を放ってさえいる現在、「がんばれ」とか「がんばろう」とか一度でも不用意に口にしたことがある人間は全員『MISSING』を見なければならない。こんなにも他人を突き放した、それでいて切実で、高潔な、一度きりの「がんばれ」が人と人の間に在り得ること。それを知ることがおそらく今、最も緊急に必要とされていることだからだ。


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『MISSING』(2011年/55min/HD)
監督・編集:佐藤央 脚本:小出豊
製作:神戸映画資料館
出演:土田愛恵、きく夏海、信國輝彦、昌本あつむ、八尾寛将、堀尾貞治
STORY:一人息子の失踪の原因が自分にあると、自らを責めている清瀬晧子は、5年の月日が過ぎても息子の帰りを待ち続けている。そこに、物事の「因果」について狂信的に語る女と、息子のかつての同級生が現れる……。


「CO2東京上映展2011」7/23(土)~8/5(金)ユーロスペースにて連日レイトショー!
今作『MISSING』は、7月26日(火)21:10より万田邦敏監督『面影Omokage』と共に特別上映予定
★上映後、万田邦敏監督、佐藤央監督、富岡邦彦(CO2運営事務局長)によるトークショーあり


「佐藤央作品集」8/20(土)&21(日) @神戸映画資料館
最新作『MISSING』を完成させた佐藤央監督の08年以降の作品を特集上映。また同作にて脚本を担当した小出豊の短編も上映


濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ)
1978年生まれ。東京大学在学中より自主映画の制作をはじめる。卒業後、自作の制作と並行して映画やTV番組の助監督を務める。東京藝術大学大学院映像研究科(映画専攻・監督領域2期生)の修了作品として長編『PASSION』を監督。同作はサンセバスチャン国際映画祭、東京フィルメックスなどに出品された。また東京藝術大学と韓国国立映画アカデミーの合作である最新作『The Depths』が、2010年東京フィルメックス特別招待作品としてワールドプレミア上映された。