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September 22, 2011

『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』アンドリュー・ラウ
隈元 博樹

[ book , cinema ]

このフィルムの主人公チェン・ジェンはかつてブルース・リーが『ドラゴン 怒りの鉄拳』で演じた架空の武道家である。その名前は、ブルース・リーという伝説的なスターがかつて演じたひとつのキャラクターであることを越えて、その後のカンフー映画に繰り返しその影を落とす。後にこのチェン・ジェンは、彼の死後を物語にしたり、リメイクをしたりしてジャッキー・チェンやジェット・リーによって演じられてきた。今回の『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』でチェン・ジェンに挑んだのはドニー・イェン。しかし彼がチェン・ジェンを演じるのはこれが初めてではない。本作は彼が過去にチェン・ジェンを演じたTVドラマ『精武門』の後日譚であり、1925年の租界地・上海を舞台としたいわばヒーロー映画の「サイドストーリーもの」のような物語である。だからドニー・イェンはブルース・リー、あるいはこれまで過去に演じられてきたチェン・ジェンの衣装や戦闘スタイルを大胆に踏襲していく。時代を超えて繰り返し登場するチェン・ジェンというキャラクターは、まるで一子相伝の秘技と共にただひとりの弟子に受け継がれたひとつの称号のようなものなのである。
土砂降りの上海のとある映画館では、劇中映画である『仮面の戦士』が上映されている。チェン・ジェン(ドニー・イェン)はそのフィルムの看板を一瞥し、ショーウィンドウに飾られた黒装束と仮面の衣装に袖を通す。これはブルース・リーが『グリーン・ホーネット』で演じたカトーのスタイルだ。また日本軍指揮官・力石(木幡竜)の待つ虹口道場でのクライマックスでは、『ドラゴン 怒りの鉄拳』を彷彿とさせる白い詰襟に身を包み、彼は鮮血に染まりながらも闘い続けることとなる。私たちはそうしたドニー・イェンの身体に、ブルース・リーやこれまでのチェン・ジェンを自ずと重ね合わせてしまうだろう。

 ヨーロッパ戦線から帰還した同志たちとともに日本軍へのレジスタンス運動を極秘裏に支えるチェン・ジェンは、その戦線で敵の銃弾に散った友人になり済ましている。しかし本作のなかで複数の顔を纏っているのは彼だけではない。あらゆる登場人物が建前のキャラクターと、その背後にあるもうひとつの演じられるべき役割を持っている。
上海一のナイトクラブ「カサブランカ」のシンガーであるキキ(スー・チー)や、ホステスのウェイウェイ(フォ・スーイェン)は、上海レジスタンス組織を抹殺にかかる日本軍兵のいわばスパイだ。彼女たちは互いに売り買いしたタバコにクラブを出入りする反日中国人処刑者の名を記し、それを便りに力石率いる在留日本軍は反日派の連中を次々と抹殺していく。さらにクラブオーナーのリウ(アンソニー・ウォン)は上海の財界にとどまらず政界にも密通している首領である。イギリス租界の警察に賄賂を渡すホアン警部(ホアン・ポー)は、チェン・ジェンとともに第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に駆り立たされた同志である。このように私たちはチェン・ジェンという人物のみに留まらず、同時に彼を取り巻く人物たちの、真の正体を暴いていく瞬間を絶えず目撃してしまう。つまり本作では過去のブルース・リーやチェン・ジェンを主とした作品たち以上に、登場人物たちそれぞれが持つ複数の顔が事細かに強く焼き付けられていくのだ。

 それはおそらく本作の舞台が1925年の上海、つまり日本やフランス、さらにはイギリスやアメリカをはじめとした租界の時代であることと決して無関係ではないだろう。「カサブランカ」の壇上で中国語曲を歌うキキに、上手側の席を陣取る日本軍兵が日本語曲を強制的にリクエストするシーンがある。彼女は少し間をおいて歌い始めるけれども、付け髭のピアニストであるチェン・ジェンが革命歌「インターナショナル」で割り込むとフランス人は歓喜し、日本人は不満を散らしながらその場を去っていく。連合国側の国々に譲渡、分割された上海のナイトクラブに数多の言語がこだまする。チェン・ジェンたちは常に失われつつある祖国と列強国のはざまで生きている。だからこそ彼らは複数の顔を背負わなければならない。そうした複数の顔をアジアのカンフースターからハリウッドの国際アクションスターに上り詰めた男たちの孤独な戦いに重ね合わせるのは無理があるだろうか。充満する1925年の阿片の香りとともに、ブルース・リー=チェン・ジェンから始まったカンフー映画の歴史がこのフィルムには漂っていると思うのだ。


新宿武蔵野館ほかにて、全国順次公開中