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July 5, 2012

『バビロン2ーthe OZAWAー』相澤虎之助
結城秀勇

[ cinema ]

「旅行なんてなあ、結局誰かが占領したり侵略したところに行くだけなんだよ」、そんなようなことを伊藤仁演じる古神は言う。だからだろうか、この映画のあらゆる映像や音や言葉は、○○の後に映し出され、鳴り響いているように感じた。映画における映像や音は本質的に現実より先には起こらない、というような原理的な言説としてではなくて、もっと経験的な考察として、たとえば旅行者として踏みしめているこの地面は、侵略者や征服者の作った道だというような、「遅れている者の倫理」に相澤虎之助の映画は満ちている。
まるで数十年前に撮られたとさえ見える8mmの肌理の粗い映像、その上に文字通り後から乗っかってくるアフレコの声、そしてその出来事がすでに起こってしまったことだけを告げる字幕とナレーション。そのひとつひとつがすべて○○の後にやってくるのだが、それらひとつひとつが互いに遅れ、決してひとつには重ならない。鷹野毅演じる『国道20号線』のオザワが、アジアに羨望を抱きながらも新宿にとどまり、富田克也演じるもうひとりのオザワがはじめは興味のないベトナム・カンボジアに対して、もうひとりのオザワを後追いするように次第に見入られていくように。あるいは日本語の字幕と、そこにオーバーラップするナレーションとが決して100%同じ細部を持っていないように。そのズレの織りなすレイヤーは、『クリスタル・ボイジャー』に匹敵するトリップ感を与えてくれもする。
上映後のトークで五所純子が指摘していた、相澤作品における「擬=偽」性。アジアの裏歴史三部作とされる「バビロン」シリーズのモラルは、歴史の真相を暴こうなどという厚かましい正当さにではなく、記述された歴史を並べ替えただけにすぎないのに、それがあたかも偽史に見えてしまう、ということの方にある。それはトーク中相澤が何度か口にしたドラマツルギーの問題にもおそらく重なる。彼の作る物語は、統治者のそれとは異なる、旅行者の歴史なのではないだろうか。「ここに映ってるものはフェイクですけど、じゃあ(現実の)アメリカはフェイクじゃねえのかよ、と思いますけどね」(相澤)。
この映画の最後、それまで英語でなされてきた尾崎愛のナレーションが突如として日本語に変わる。その響きに胸を打たれる。なにかに遅れ続ける映像と音と言葉の奔流の中で、既に起こってしまったことだけを述べてきた彼女の声が、はじめて未だ来たらぬものに向けられる。「私は待っている」。そう、既に侵略され征服された街に生きる旅行者でもあるわれわれもまた、そんな瞬間を待っている。


第五回爆音映画祭にて上映