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July 12, 2012

『5 windows 吉祥寺remix』
安田和高

[ cinema , cinema ]

 Cinema de Nomad「漂流する映画館」。それは街全体を映画館に変えてしまう試み。『5 windows』は、5つの空間と、5つの物語を、観客それぞれが街を漂流しながら体験するというもので、昨年の10月にシネマ・ジャック&ベティを起点としてロケ地である黄金町界隈で上映された。じっさいにスクリーンで見た風景のなかを歩き、同じように空を見あげ、同じように「緑色に濁った川」の匂いを嗅ぎ、同じように走る電車を見つめた。そうしてスクリーンとじっさいの街とを重ね合わせることで、かつてそこにいた誰かの存在(その記憶、夢、未来……)を呼び起こすような体験。すごく興奮したのを憶えている。
 たしか3月だったか。その『5 windows』を劇場用に再編集しようと考えているという噂を耳にした。それからしばらくして爆音映画祭でやるという話を聞くのだが、当然ながら再編集版を上映するものだとばかり思っていた。まあboidの樋口泰人さんは「(黄金町みたいに)吉祥寺の街のあちこちで上映できれば、おもしろいよねえ」とは言っていたけれど、あの時点で、そんなことがほんとうに実現するとは思いもよらなかった。


 だけど『5 windows』は漂流する。そう川に投げた追試が太平洋を渡ってアメリカまで大航海するかのように。吉祥寺まで流れて来た。「後悔先に立たず」。そこは、もはやロケ地ではない。スクリーンに映された風景とは違うべつの街だ。べつの歴史を持ち、べつの顔を持つ。半分が室内での上映だった黄金町に対して、吉祥寺では上映場所はすべて屋外だった(だから7/7は雨の影響をモロに受けて、みんなずぶ濡れになったわけだけど)。観客は、黄金町よりはるかに人通りの多い吉祥寺で、雑踏のなか、べつの街の、夏のある日の、ある4人の姿を見る。道ゆく人がふと足を止める。自転車がベルを鳴らして通りすぎる。遠く車の走行音が聞こえる。中央線が走る。それらじっさいの街にあふれるざわめきはスクリーンのなかの街と溶け合い、そこに豊かな広がりを与えていた。(ぜんぜん気づかなかったのだが)聞けば、音を吉祥寺用につくり変えているという。たとえばスクリーンを走る京急線にはJR中央線の音がつけられているのだ、と。つまり瀬田なつきは“嘘”を導入したのだと言える。しかしその嘘は(はじめに予想したのと違って)乖離性よりはむしろ不思議な親和性をもたらしていた。考えてみれば当り前かもしれない。わたしたちは過去をありのままに記憶しているわけではない。それは年月を経て変化したり、思い違いがあったり、幻想が紛れ込んだりする。
 ——あ、これって誰かの夏の思い出?
 べつの街の真夏の風景が、いまここに立つ街の初夏の風景と混じり合う。わたしの記憶と誰かの夏の思い出がごっちゃになる。その時空の奇妙なズレがひらく「5 windows」は、やはりいつかどこかにいた誰かの存在(その記憶、夢、未来……)をかすかに呼び起こしてくれた。


 2011年8月27日14時50分。


 4人は橋の上で小さくすれ違う。染谷将太は自転車に乗って橋を渡り、長尾寧音は橋の上でカメラを手にし、斉藤陽一郎は屋上から橋を見下ろしている。中村ゆりかは、……そう彼女だけは14時50分と口にしなかったようだ。「あっ暑ー」とつぶやき、「あーあ。みんないなくなっちゃったな」とつぶやく。だけど彼女は緑色のレトロなワンピースとオレンジ色のサンダル姿で染谷将太と並んで自転車をこぎ、長尾寧音のカメラのまえでポーズをとり、斉藤陽一郎と屋上でバーベキューに興じていた。それは、きのう見た夢であり、いつかの記憶であり、誰かの夏の思い出なのかもしれない。
 が、それでも14時50分。
 長尾寧音はファインダーごしにその姿を見たし、14時50分(そのほんの少し前)その娘はホースを踏んで水を撒く斉藤陽一郎をからかったし、14時50分(そのほんの少し後)染谷将太はふと気配を感じて顔を上げたのではなかったか。たしかに舗道のサンダルはオレンジ色ではなく水色だったけれど、それを引っかける足をわたしたち観客は知っている。それはホースを踏んでいた足と同じものだ。


 染谷将太が誰かを見つめる。
 中村ゆりかが見つめ返す。
 ふたりの視線が交錯するのを、わたしたちは見る。


 ところで、2012年7月7日。


 その中村ゆりかのパートを上映していた吉祥寺図書館でのこと。爆音ボランティア スタッフのひとりが雨の降るなか気持よさそうに素足で跳ね回っていたという。それはきっとスクリーンの向こうの風景と、こちら側の風景がほんとうに地つづきになったような光景だったろう。ひょっとすると7月7日の計ったようなタイミングで降った雨は彼女のいたずらだったのかもしれないとさえ思えてくる。ホースを踏んでいた足をパッと離したのだ、と(そういえば中村ゆりかはビニール傘を手にしていたのではなかったか!)。このような偶然というか、思い込み(思い違い)、幻想が“いつかどこか”と“いまここ”をあっけなくつなげる。
 ——あ、これって誰かの夏の思い出?
 いや、あっけなく、と言って、そのように本来つながらないはずのものを易々とつなぐのは、素足で跳ね回ってしまうような、わたしたちの存在のおかげである。わたしたちは斉藤陽一郎と同じような恰好をして(頭上に投射された)空を見上げ、長尾寧音と同じようにカメラが切り取る風景を見つめ、そして染谷将太と同じように女の子の存在を感じ取る。


 見つめ合うふたりは、切り返しショットでべつべつに捉えられているが、しかし時と場を異にしてなお、そこに同居していた。それはわたしたちが、染谷将太の見ている先に中村ゆりかがいることを、ちゃんと見ているからこそ起こり得た、奇跡だ(「嘘だけど」)。
 それは、いつかの記憶、きのうの夢、ありえたかもしれない未来……、との不意の邂逅。


 ——いま何時?
 ——15:02


 ふたりの手が、ほんのひと時、触れ合う。
 それは、ここ黄金町の、ここ吉祥寺の、つまりは中村ゆりかのいる街での出来事。いつのまにかみんなで同じメロディをハミングしていた、そんな世界のお話。


(で、さいごに変なことを言うようだが)見ていてぼくはひとりの女優を思い出していた。
 ジョヴァンナ・メッゾジョルノ。
 どうしてまた、と思うかもしれないが、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』でメッゾジョルノは、その存在を歴史から抹殺されそうになりながら、必死に「私を見て!」と叫びつづけ、見る者を挑発していた。また『パレルモ・シューティング』のラストで、わたしたちに向かって「you」とささやきかけていた。もちろん中村ゆりかは「私を見て!」とは叫ばないし、「you」ともささやかない。それでも彼女が笑顔を取り戻したのは、きっとどこかで「あなた」が「見ている」ことを感じたからだと思う。わたしたちそれぞれの視線が、どこでもない/ほかでもない、ここに、彼女を存在させているのだということを。


 そして、
 ——ありがと
 と言う彼女の声をわたしたちは聞く。


 ※ちなみに『5 windows 劇場用再編集ver.』は、なんというか斉藤陽一郎(「そんなことはしない」)を起点として発生するパラレル・ワールドのように見えた。花火のついた世界と、つかなかった世界。あるいは染谷将太に水が降りかかった世界と、長尾寧音につられて空を見上げた世界。重なり合ういくつもの14時50分。しかしそれらを成立させているのはやはりわたしたちの視線と記憶だ。そこではたしか中村ゆりかはもう「みんないなくなっちゃったな」とはつぶやかなかった。どこかべつの14時50分を音楽に乗って晴れやかに歩いていた。


爆音映画祭2012にて上映