« previous | メイン | next »

February 27, 2013

「週刊金曜日」2013年2/22号
結城秀勇

[ book , cinema ]

人間は悲しいものだ。希望の少ない人ほど善人だ。正確な引用ではないが、先日見たフレデリック・ワイズマンの『最後の手紙』にそんな言葉があった。ワシリー・グロスマンの『人生と運命』中の一章を戯曲化したものを、主演女優のカトリーヌ・サミーのためにワイズマン自身が脚色した一人舞台。サミー演じるアナ・セミノワはユダヤ人収容所の中で、希望を抱く人間ほど利己的になり、生存本能の奴隷となっていくさまを見る。医者である彼女が、往診の際にその瞳の奥に人間を見出すことができるのは、老いて病んだ貧しい、希望の欠片も持たぬ患者だけだ。
そんな映画を見たあとで、週刊金曜日が廣瀬純責任編集「希望にすがるな絶望せよ」という特集を組んでいたので、買うしかない。廣瀬純が「絶望」というタームをたびたび持ち出すのを、いくつかのトークやアンスティチュ・フランセの授業などで耳にはしていた。だがその「絶望」に込められた正確な含意については測りかねる、というのが率直な感想だった。それがこの「週刊金曜日」を読んで、まるで霧が晴れるようにスッキリとわかった……わけがない。
「絶望」はそんなものではない。誰にでもよくわかるお手軽な「絶望」などない。だから自分で作り出さなければならないのだ。それがこの特集で語られていることだ。安直だが、正しい絶望ではなく単なる絶望、というゴダールのパラフレーズをしてみたくなる。廣瀬が特集総論でフランシス・ベーコンを例にあげて語っているように、それは「創造する力」と同義である。だから表紙に書かれた4名の間で「絶望」が共有されているわけではないし、めいめいが自ら生み出したものがここに記載されているだけだ。そこがおもしろい。
青山真治はメルヴィルとフォークナーから二種の「絶望」を引き出し、同ページに配された中原昌也のコラージュは、(そこに置かれているからこそ)水量が減ってゴミの浮いた河のようにも、そこから出てくるのかこれから入っていくのかもわからないトンネルのようにも見える。フランコ・ベラルディは、過去=不変、未来=可変という図式を転倒させて、未来こそ選んだり変えるためのものではなく、ただ待つものだと語る。そしてこの特集の核心にもっとも触れている言葉は、緒方正人の「私は絶望が個に返されている時代だと思います」だろう。
「まだちょっと絶望感が足りないんじゃないか」、総論の冒頭に引用された石牟礼道子の言葉も、必要充分な量の「絶望」があるわけではなく、ただそれですべてが満たされるか否かしかないと解釈すべきだろう。あらゆる人が自分で「絶望」をつくりだすか、あるいは蔓延する希望に呑み込まれるか。ここから先は蛇足だが、私が自身の「絶望」をつくりだすために考えた処方箋である。緒方正人が「チッソは私である」ことを発見することで、人間対(守るべき)自然という図式から逃れ得たこととまるでシンクロするような映画を、ここのところ立て続けに見た。レオス・カラックス『ホーリーモーターズ』、ベン・リヴァース『湖畔の2年間』、ラバ・アメール=ザイメッシュ『マンドランの歌』。この3本の映画はどれも、人間と動物、楽器や乗物といった機械とが独自のやり方でつながり始めるための方法論に触れていると思った。それはもちろん青山が文章中でフィルムに対するデジタルの完全勝利について触れていることに多いに関係がある。またベラルディの言う未来へのアクティブな待機から思い浮かべたのは、これもまた最近たまたま読んだヘンリー・ジェイムズの「ジャングルのけもの」のことだ。主人公の人生に「まるでジャングルでうずくまるけもののように」待ち構える「なにか」が、作品中で用いられるような意味での絶望とは同定できないようにジェイムズは書いているが、彼が「なにか」にさらされるその在り様は、自分の「絶望」を発見するための補助線となりうる。私にとっては。
この文章には特別の結論もない。なぜこんなものを書いたかと言えば、つまるところ私にとって文章を書こうと思うこととは、あまりに多種多様な古今東西の「絶望」の、その多様さそのものに呑み込まれたいという欲望に他ならない、とこの特集を読んで気づかされたという告白、ただそれだけにすぎない。