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September 24, 2013

『映像の歴史哲学』多木浩二 /今福龍太編
長島明夫

[ book , cinema ]

 多木浩二が2011年4月に82歳で亡くなった後、多木に関連する本がいくつか出版された。1991年刊行の磯崎新との対談集『世紀末の思想と建築』の復刊(岩波人文書セレクション、2011.11)もそのひとつに数えられるかもしれないが、新刊の著作としては、2007年の講演をまとめた『トリノ──夢とカタストロフィーの彼方へ』(多木陽介監修、BEARLIN、2012.9)と、主に1970年代の建築やデザイン関連の単行本未収録テキストをまとめた『視線とテクスト──多木浩二遺稿集』(多木浩二追悼記念出版編纂委員会編、青土社、2013.1)があり、また筆者が発行する『建築と日常』誌の別冊『多木浩二と建築』(2013.4)では、1000件を優に超える多木の網羅的な著作目録を作成し、多木による一連の坂本一成論7本を再録した。ただ、これらはいずれも建築や都市を一応の領域的基盤とする本だったが、そうではない、いわゆるもっと人文系寄りのものとして先ごろ刊行されたのが、ここで紹介する『映像の歴史哲学』(今福龍太編、みすず書房、2013.6)である。
 本書は、2003年と2004年にそれぞれ3日ずつ計6日間にわたって行われた講義「映像文化論」の内容をまとめたものである。当時、札幌大学文化学部の教員だった今福龍太が多木を招いて企画した2年連続の夏期集中講義で、50時間近くもあったというビデオ映像の記録が今福らによって書籍の体裁に編集された。もともとが学生を相手にした語りであるため、多木の他の著作に比べて単純な意味で読みやすく、分かりやすい。さらに内容としても、多木の思考や過去の活動の要所が幅広く押さえられており、上記の没後出版のなかでも多木の入門書として最適である。
 しかしながら、いざこの本を要約して説明しようとすると、上記の本のいずれよりも難しく、途方に暮れてしまう。書籍化に際して『映像の歴史哲学』と銘打たれ、全体は6章立てに整理されてはいるものの、話題は多木の自伝的内容に始まってさまざまに移り変わり、第4章「未来派」に至っては「映像」とほとんど関係がない。それどころか多木の講義録として読み進めていたつもりが、途中からは編者である今福の語りも挿し込まれていき、一体この本を多木の単著として額面どおり受けとめてよいのだろうかと落ち着かない気分にさえもなってくる。言ってみればこの本のエッセンスは、そうしてはっきりとした分節をもたずに流動する読者それぞれの読書空間の中にしかなく、決まったかたちで外に抜き出せるものではない。要約は絶望的である(せめてもの試みとして、語られている主な固有名を挙げてみると、レニ・リーフェンシュタール、ヴァルター・ベンヤミン、名取洋之助、東松照明、中平卓馬、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、未来派、ジガ・ヴェルトフ、スーザン・ソンタグ、プリーモ・レーヴィ……)。
 ところが一方で、そうした要約のしがたさこそ、この本が多木の入門書として最適な所以でもある。つまりこの本の要約のしがたさは、そのまま多木の知識人としての活動全体の要約のしがたさでもある。生前の多木の活動は、人間の日常に深く根ざしながら、芸術や文化や思想といった個々の領域概念を超えて展開された。「私がいう知の世界とは、端的にいえば哲学の世界です。哲学というのは、知のあらゆるものを総合した世界です。専門領域をもたないということのなかにこそ哲学の世界があるのです」(p.26)。それは体系的な秩序をもたずに複雑な網の目を構成し、時に比喩的に結ばれ、時に詩的に飛躍する。「ベンヤミンは体系をつくりません。私も体系をつくろうという気はありません」(p.30)。この本を読み、その読書空間に身を置くことは、そうして生きた多木浩二を体験することでもあるのである。
 とはいうものの、本書はあくまで多木の没後出版である。50時間にわたって記録されたのは確かに多木自身が発した言葉に違いないとしても、それをコンパクトにテキスト化してまとめる編集の仕方は無数にある(1年目の講義の終了後に2年目の講義の開催が決まったとするなら、前の3回と後の3回の間には1年という時間以上の隔たりも見られたはずだ)。あるいは全体から不必要な部分をそぎ落としてまとめるというより、膨大な素材のなかから必要な部分をピックアップして組み立てるような作業だったかもしれない。そしてそれは先に述べたこの本の読書体験のあり方を左右する行為にほかならず、多木があずかり知らぬことでもある。したがってこの本の「要約のしがたさ」は、編者によるフィクションである可能性がある(ある程度の編集の技術をもった人間ならば、もっと要約しやすく、体系的に秩序立ててまとめることもできたかもしれない)。いや、おそらく誰がどうまとめるにせよ、フィクションにはならざるをえないのだろう。けれどもここで彫琢されたフィクションは、ある種の文学作品や映画作品のフィクションが信頼できるのと同じように、信頼してよいと思う。
 編者の今福は、1996年に刊行された多木との対談集『知のケーススタディ』(新書館)のなかで、2年間全8回にわたる対談を振り返ってこう述べている。
「自分としては、学的な厳密性というものを、ある別な可能性として示すことのできるような方法を考えていたんです。社会科学や人文科学においては、リアリズムでも実証主義でも経験論でもいいんですが、ともかく非常に限定された論理と言葉遣いのなかで、厳密性が追い求められますね。
 ところがその、いわゆるアカデミズムの言語と思考法が、いま、逆に非常に狭いところに追い込まれているような気がする。論理的な厳密性の上に、さらに近年は倫理的な厳密性をも求めることで、言説があまりにも窮屈なものになっている。もっと異なった回路や方法論を使って、同じような厳密さにたどりつくやり方はあるんじゃないか。学問的厳密性という要件をあえてつきはなす言い方をすれば、詩的精密性(ポエティック・アキュラシー)とでもいうのでしょうか。論理や事実の検証という階梯を通過することなく、ひとおもいに核心をつかんでしまう力が詩にはあるわけです。
 そういう意味も含めて、ぼくは多木さんとの対話を精密にやりたいと思った。ポエティックな回路をかなり大胆に混在させていって、別な形で厳密な問題性をつかむ。それは、従来のアカデミックな立場からみれば、飛躍のある方法です。場合によっては、非常に文学的に見えるかもしれない。」(『知のケーススタディ』p.10)
 言葉の構成に、論理的な厳密性ではなく、詩的な精密性を求めること。かつて今福が語り、多木と共有していたそのことが、多木の没後にふたたび、多木のテキストを素材にしながら今福によって実践された、『映像の歴史哲学』とはそんな場だったのではないか(論理は要約できるが、詩は要約できない)。それは一般的な著者と編者の関係の枠組みを超えた両者の協同であり、多木の思考のあり方を引き継ごうとする今福の追悼行為とも捉えられる。もちろん多木と今福は別の個性だろう。しかし、そうした他者との折り重なりのなかでこそ存在するのが、多木がまなざしていた書物というものでもあった。
「私の言葉がすでに他人に語られているからといって悲しむ必要もないし、ましてや意見が一致したとしても喜ぶことではない。ほんらい書物というものは、決して孤立することもなく、またまったくあたらしい出来事でもない。誰が最初の本を書いたのか、誰が最後の本を書くのか、そんなことは私が想像することもできないし、予想も不可能である。」(多木浩二「読書の夢想」『もし世界の声が聴こえたら──言葉と身体の想像力』青土社、2002、p.25)
 以上書いてきたように、新刊の『映像の歴史哲学』には、さまざまなレベルにおいて多木の思想が織り込まれている。そしてその織物は、本書のなかで完結することなく、また別の時間、別の空間へと縦横につながっている。


多木 浩二
みすず書房 2013-06-26
¥ 2,940

『多木浩二と建築』「建築と日常」ホームページ