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November 21, 2013

ALC CINEMA vol.4 『やくたたず』三宅唱
隈元博樹

[ cinema , cinema , theater ]

青春映画に流れる時間には、絶えず終焉の影が潜んでいる。徴兵を間近に控えた若者たち、ひと夏のバカンスがもたらす出会いと別れ、結婚や葬儀による通過儀礼もそのひとつだろう。その必要不可欠な「終焉=リミット」とは、時代とともにさまざまな方法で語り継がれてきた。もちろんそれは、若者時分のものだけではない。老若は関係なしに、青春は己の記憶として生き続けていく。


作り手が青春映画というジャンルを選ぶならば、「終焉=リミット」に無意識ではいられない。だけど現代の青春映画を撮ることにおいて、必要不可欠なリミットとはいったい何だろう。もちろん個人的な事実に基づいたリミットを描くことは簡単かもしれない。だけど「僕らの青春」であるリミットを観客にひけらかしたとして、それはあくまで自身のリミットにすぎない。そうしたことを念頭に置きながら、今回の「ALC CINEMA」で『やくたたず』(10)を見直してみた。スクリーンに映る今現在の青春の終焉を、もう一度見つめてみようというひとつの試みだ。


すると『やくたたず』の後半には、そうした終焉の影が随所に潜んでいることに気がついた。−20℃の環境のさなか、石狩の海と学ラン姿の高校生たちを見れば、「ああ、これで彼らの青春は終わってしまうのか」と一度はそう思うだろうし、盗まれていた幌車を見つけた3人が、運転手を襲撃して逃走した場面を振り返ると、「ああ、これで本当に終わっちゃうのか」という気配も否めない。だけど『やくたたず』はそこで終わらない。工場めいたガレージの前で、セルフタイマーをミスって撮れなかった記念撮影の場面でさえ、そのリミットは映画の終焉であることを拒んでいる。終焉となりうるはずのいくつもの場面を、登場人物たちはぐるぐると旋回し、まるで身をよじらせるようにしてその終焉を予感させるまでにとどめている。トークセッション中に、ゲストの建築家・家成俊勝もその終焉に関して指摘したところ、そこには三宅唱が青春映画というジャンルを据えながらも、リミットに対しての映画的な行為や考察が確実に働いたと語っていた。まっさらな雪の降り積もる北海道の景色と、現代に生きる高校生たち=学ランというモノクロームのアイコンを身にまといながら、そのリミットをまるでかいくぐっていくかのように戯れてみせること。つまり『やくたたず』とは、青春映画におけるリミットそのものについて考察している映画であり、「彼らの青春が終わってしまう」といった焦りや不安を抱かせながらも、青春映画の「終焉=リミット」を静かに喚起しているのだ。


そして青春映画の終焉を旋回しながらも、『やくたたず』な彼らのように戯れてみせるのならば、たがいに「つるみ合う」ことを止めてはならない。『やくたたず』は自らの青春の終焉に立ち会った3人の高校生が、「つるみ合う」ことによって生まれた。そして今回で4回目を迎える「ALC CINEMA」恒例のトークセッションは、例外はあるにせよ中央の丸テーブルを囲んだ上映作品の監督、ゲストの建築家、そしてモデレータの藤原徹平の3名によって行われる。だから今回は三宅、家成、藤原の3名によるにぎやかな「つるみ合い」だったように思う。おもむろに家成が学生時代に3人でつるんでいたことを語りはじめてからは、異業種の対談者たちがつるみ合うことで生まれるグルーヴをそこに感じ、映画やトークが終わったあとも、まるで青春の終焉を熟知した映画の高校生のようにさえ見えた。


だけど「つるみ合い」は、映画に登場する3人の高校生やゲスト諸氏だけではない。不特定多数の他者と映画を見てトークを聴くことも、ひとつの「つるみ合い」。建築とアート書籍に囲まれた横浜・吉田町の片隅で、時を同じくスクリーンを見つめる観客たちも、おそらく「つるみ合い」を自然と実践していたうちのひとりだったにちがいない。


ALC CINEMA vol.4 11月16日(土)18:30- @Archiship Library&Café

11月23日よりオーディトリウム渋谷にて『Playback』公開1周年記念イベント&レイトショー決定!


  • 『やくたたず』三宅唱 渡辺進也
  • 『やくたたず』三宅唱 松井宏
  • ALC CINEMA vol.2 『PASSION』濱口竜介 増田景子