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February 23, 2014

『ワンダー・フル!!』水江未来
隈元博樹

[ cinema , cinema ]

作品は本来「work」と呼ばれ、なした仕事が積もり積もれば「works」となる。だから作品を作ることが仕事である以上、作家は労働者であり、作品を作り続けることが労働の集積となる。いっぽう仕事は「job」とも言い換えられるのかもしれない。だけど「仕事をしろ」「定職に就けよ」と日々のなかで口酸っぱく言われてやってしまうものが「job」ならば、能動性を孕んだ労働こそが「work=作品」であり、やっぱり作品集は「works」と呼ぶのがふさわしい。


思えば映画の登場人物たちは、みなつねに映画のなかで働きまくってきた。『群衆』(28)のジェームズ・マーレイや『コントラクト・キラー』(90)のジャン=ピエール・レオもそうだけど、俯瞰した窓からのシーケンスに飛びこむ彼らといえば、「one of them」としての存在にすぎない。だから碁盤の目のように並べられた同じ机へと向かい、同じような手つきで取りかかる彼らの仕事は、けっして「work」ではなく「job」だ。『メトロポリス』(27)の地下社会で働く人々も、そんな「one of them」のjob、job、job !! 資本主義の一歯車として丸めこまれた描写のなかで、つねに何かの一部として働かされている状況がそこに物語られていた。


作品集『ワンダー・フル!!』に描かれたアニメーションの単細胞たちは、そんな「job」から「work」への跳躍を軽やかに試みようとしている。水江未来の手によって生み出された当初の彼らは、多細胞のなかで存在する「job」なヤツらばかりだ。つまり単体として機能するのではなく、そのほとんどが集合体としての「one of them」。だから彼らのあらゆる運動を労働と呼ぶならば、それは与えられた場を受動性のもとに全うする労働者の姿だ。『FANTASTIC CELL』(03)『LOST UTOPIA』(07)、また『METROPOLIS』(09、ラングと同じタイトル!)では、あくまで集合体としてのアイデンティティが暗黙の了解とされ、彼らは決して「only one」の労働者になることはできなかった。


だけど『DEVOUR DINNER』(08)や『JAM』(09)以降から、「job」なヤツらは「only one」への道をみずから歩みはじめる。冒頭からまっさらなフレームのもとに現れては消え、現われては消えるという突然変異のターム。誰彼に群れることなく予測不能のフリースタイルをかます単細胞たちは、ひとつの単細胞として自らを躍動させていく「only one」としての労働者だ。そしてそれらは細胞だけでなく、2010年に入って制作された『MODERN』『MODERN No.2』に見られる直方体たちの変形運動にも継承されている。「one of them」だったヤツらは、「job」から「work」への転身を図ることで「おれはこうして働くんだ」と、まるで自らを奮い立たせるかのように「only one」への道へと突き進もうとするのだ。


最新作の『WONDER』には「work」と化したすべての細胞たちに対し、ある「労働基準法」が施行されている。それは過去と同じ突然変異を繰り返してはならないということだ。「one of them」ではなく「only one」していいのだから、前とはちがった「Good work」をしなさいと。その最たるものが『WONDER』であり、『ワンダー・フル!!』にはそうした「job」から「work」への変遷が明示され、労働の集積が「works=作品集」としてまとめあげられているのだ。


-俺たちはこうやって自分たちなりに仕事をしてみるんだ!-だから『WONDER』にはそんな細胞たちの突然変異や変形による「Good work」な試みに漲っている。たしかに「Good job !!」と呼ばれることはけっして悪くない。だけどそんなヤツらには「Good job !!」ではなく、心の底から「Good work !!」と叫んでみたい。


『ワンダー・フル!!』は2月22日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開予定
(昨年水江未来氏に行った小誌インタヴュー「Welcome to WONDER!!!」はこちら)