« previous | メイン | next »

September 15, 2014

『渇き。』中島哲也
田中竜輔

[ cinema ]

 役所広司という俳優が、ある種の「普通ではないもの」をめぐって右往左往する姿を、私たちは幾度となく目にしてきた。たとえば正体不明の殺人鬼や、徘徊する幽霊たち、あるいは自分自身にそっくりな誰か。「普通ではないもの」とは「理解し得ないもの」とも言い換えられるだろう。そういったものどもを追いかける役所広司は、いつもきわめて具体的なものと接触し、論理的に振る舞っていた。痕跡を調査し、調査から推論し、推論に基づいて行動する。それが何かしらの解決を導いたり、ある種の正解へと辿り着くことはきわめて稀だが、それでも役所広司は「理解し得ないもの」をどうにかして肯定しようとする。「理解し得ないもの」の謎は近づけば近づくほどに深まってゆくばかりで、明瞭な輪郭や形象は見出すことはできない。それゆえに役所広司という俳優は、自らの存在を媒介としてひたすらに摩耗させながら、姿もかたちもないその存在をスクリーンに焼き付けさせようとする。私たち観客は役所広司という俳優の姿を見つめることにこそ、「理解し得ないもの」の存在を知覚するのだ。言い換えるなら映画において「理解し得ないもの」とは、その対象を(不可能とは知りつつも)理解しようとする誰かの姿においてこそ成立させられる存在なのだ。
 『渇き。』の役所広司が演じる元刑事の男もまた、別れた妻と暮らす娘の「加奈子」という姿なき怪物(「理解し得ないもの」)を追いかける人物であると、とりあえずは言える。部屋に残された物品から現状を考察し、娘の友人たちにその交友関係について聞き込みし、息を切らして街を彷徨い、血みどろになりながら娘の姿を追いかける。あらゆる証言は「加奈子」が「普通ではないもの/理解し得ないもの」であることを過剰なまでに語り、暴力や死はそこら中に溢れ、役所広司もまた姿の見えぬ娘を発端とした力の連鎖に成す術無く巻き込まれていくことになる。
 しかし、このフィルムの「加奈子」という人物が本当に「理解できないもの」であるかどうかと言えば、その答えは否。たしかに彼女の一連の行動は常軌を逸したショッキングなものだけれども、それはたんに「設定」として彼女に与えられたものに過ぎず、彼女の「存在」を規定するものではない。彼女がいったい何をしでかしていて、それはどういった理由に基づいていたのか。そういった一切の事柄は、役所広司の懸命の捜査において暴かれることは一度としてなく、この映画の全体に散りばめられた人称不明の回想イメージによって、あまりにも明瞭に包み隠さず示しだされてしまう。ゆえにこのフィルムにおける役所広司の捜査は、「加奈子」という「存在」とははまるで関わりがないもののように見えてしまう。役所広司のあらゆる行動は「理解し得ないもの=加奈子」という第三者に生み出された「設定」を解読することにしか寄与せず、「加奈子」という「存在」を肯定することには結びつかない。役所広司のそうした姿に、私たち観客はもちろん「加奈子」の存在を見出すことはできない。
 そもそも役所広司はいったいどうして「加奈子」を探そうとしているのか。その理由はもちろん役所が「加奈子」の「父親」であるからだが、それもまた「設定」に過ぎない。別れた妻を強引にレイプした翌朝、役所広司は怒りに震える元妻に理由を尋ねられて、「愛しているからだ」と呟いた。それを鵜呑みにするならば、「加奈子」を探す理由もまた、父親として「加奈子」を「愛している」からなのだと、そう言えてしまうだろうか。もちろんその「設定」は十全に理解できる。けれども「愛」などという姿もかたちもないものを後ろ盾に「行動」を肯定するなんて、映画としては完全に手順が間違っている。そもそも「顔もよく覚えていない」という自らの「娘」を再発見しようとする父を主人公としたこのフィルムの物語において、娘への「愛」をあらゆる行動の裏付けとするなんてロジックは完全に破綻している。この映画が映し出すべきだったのは、「愛」という見聞きすることのできない「存在」を、いかに「行動」において証明するかであるべきだったのではないか。ラストシーンの絶望的な雪原の中で、娘の姿を懸命に探そうとする父親の振舞いは、醜悪な自己愛の発露そのものにしか見えなかった。

全国ロードショー中