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September 30, 2014

マティアス・ピニェイロ映画祭2014
渡辺進也

[ cinema ]

 9月28日。渋谷アップリンクにてマティアス・ピニェイロ監督特集。『みんな嘘つき』、『ロサリンダ』、『ビオラ』の各作品と監督によるアルゼンチン映画のレクチャー。
 どの映画も、男女が語らい、本を朗読し、歌い、演技をする。映画の中を言葉や台詞、物音が映画の中を豊かに飛び回っている。そうした音に耳を澄ませながら、これまで知ることのなかった若き監督の作品に魅了された。
 一連の映画を見ていてまず気づくのは、映像と音の関係の部分である。例えば『みんな嘘つき』では、本を朗読していた女性をカメラはとらえているのだが、彼女の朗読する声はそのままに、映像は窓の外で焚火をする若者たちをとらえた場面に移っていく。このとき声のある空間、そして火を持ち遊ぶ若者たちのいる2つの空間は同じ地続きの空間にあることが示されているのにもかかわらず、映像と音は直接関係のないものを示している。そうしたずれは単純に空間の広がりを示しているのだが、それとともに映画というメディアが持っている豊かさのようなものを表しているように感じる(個人的にはロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』の日記を書く文字、それを読む司祭の声、そして回想シーンとして改めて見せられるという映像と音によって三重に見せられるという場面を思い起こしたりもするのだが)。
 それぞれの音はその場で録られた、いわゆる生音が使われている。『ロサリンダ』、『ビオラ』といったシェイクスピア翻案シリーズになると、劇の為のリハーサルを演じる俳優たちと、その役とが緩やかに境界を曖昧にしていき、テキストを読むこと、そして生活することが同じものとなっていくように感じる。森の中で『お気に召すまま』を演じる俳優たち、街の中で生活する中で『十二夜』のリハーサルをする俳優たち。彼らの台詞と彼らが池に飛び込み泳いでいる音はどちらも同じように心地よく。シェイクスピア演劇に取り組む女性たちが、舞台の稽古を、あるいは楽屋で無駄話に興じる時、カメラは緩やかにそれぞれの人物にフォーカスを合わせながら、話している彼らの姿をワンカットで映し出す。同じ台詞の繰り返しによる音のリズムの揺らぎ、街から聞こえてくる物音、鳴り止まない電話の音、そうした外部の音も内部の音も引き入れながら、そこの生の瞬間を生々しく切り取る。部屋の中を移動しながら、ひとときも休むことなく『十二夜』の中の同じ台詞を3回も4回も繰り返すエンドレスの場面で、台詞を話す俳優がひとつの人生を生きる姿へと変わる瞬間を見ることになる。マティアス・ピニェイロの映画は、音、言葉、持続といったことを根幹におきながら、大胆なかたちで2つの空間を持続、接続させている。
 『ビオラ』の最後のシーン。シェイクスピアの俳優たちと出会った女性の生活にほんの些細な喜びが訪れる。カップルは家にやってきたバンドのメンバーをバックにして歌う。うまいのかうまくないのか、ちょっと調子外れなのかもと感じながら、彼らの歌声を聴く。複雑な空間の設計を施していながら、そうした油断めいたものをふっと差し込む。なごやかな気持ちになって帰ったのだった。

マティアス・ピニェイロ映画祭2014公式サイト