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October 6, 2014

『ファーナス 訣別の朝』スコット・クーパー
高木佑介

[ cinema ]

『クレイジー・ハート』(2009)に続く、スコット・クーパー2本目の監督作。アメリカの片田舎の製鉄所で働く兄をクリスチャン・ベイルが、その廃れた町から逃れ出るようにイラク戦争に行く弟をケイシー・アフレックが演じている。安い賃金ながらもまっとうな仕事は祖父や父親たちの代から続くその製鉄所くらいなもので、あとは兵隊になるか博打で稼ぐか悪党になるしかないというようなスモールタウンの閉塞感がこのふたりの兄弟の姿や町の佇まいから伺うことができる。兄のラッセルが地元の小さなバー(その店の奥でウィレム・デフォーがケチなノミ屋家業をしている)に行くと、テレビでは一回目の大統領選にのぞむオバマがアメリカの「未来」や「希望」について演説をしている。だが彼らの日常を変化させるような期待はそこから一切感じられない。『クレイジー・ハート』は中年シンガーの「セカンド・チャンス」の話だったが、兄が刑務所から出所しても、弟がイラクから帰ってきても、「未来」や「セカンド・チャンス」が彼らのもとに訪れる気配などない。そもそも彼らには最初の「チャンス」すらなかったように見える。原題は「溶鉱炉の外側」("Out of the Furnace")。弟は「製鉄所なんてクソだ」と兄に向かって言うが、しかしその「外側」も同じようにクソみたいな世界でしかなかったことを、イラクの戦場から帰ってきた彼は知っている。やがて彼は違法なボクシング試合に出場するようになり、ウディ・ハレルソンが仕切る八百長試合に出るのを最後に兄と同じようなまっとうな職につこうと考える。だが彼らに「未来」が訪れることなどない。緩やかに衰退していくようなこの町は、「未来」や「希望」からほど遠い場所にあるものとして示されている。
 アメリカの地方都市の惨状、イラク帰還兵が抱える闇、まっとうに生きようとしても不意に訪れる悲劇――監督二作目にしてこれだけのことを交錯させた映画を撮ろうとする姿勢からは、やはりスコット・クーパーの志の高さが感じられる。自身で脚本も手がけているスコット・クーパー本人は『ジョーズ』(1975、スティーブン・スピルバーグ)や『ゴッドファーザー2』(1974、フランシス・F・コッポラ)にインスパイアされた作品であるとインタヴューで語っているが、この映画を見て誰しもが真っ先に想起するのはやはりマイケル・チミノの『ディア・ハンター』(1978)だろう。兄のラッセルが叔父(サム・シェパード)と鹿狩りに行くという直接的なシーンがあるのもそうだが、製鉄所の佇まいや荒れた家が立ち並ぶ町並みからも、たしかに『ディア・ハンター』のごとく「時代」そのものを反映したような暗さや閉塞感が感じられる。映画そのものやアメリカという国の「暗さ」を思考するとき、スコット・クーパーがその参照として上記のようないずれも70年代の映画に行き着いたのは当然の結果だったのかもしれない。
 しかし、こういった主題を軸とした若手によるアメリカ映画が近年では非常に稀であるように思えるだけに、どこかこのフィルムに物足りなさを感じてしまう。たしかに切り取られたひとつひとつの映像はどれも秀逸に見える。俳優たちの演技も、この映画の世界のトーンに貢献するようなスタイルが貫徹されているようで決して悪くはない。だが、それでも(それゆえなのか)物足りなさを感じてしまうのは、おそらくこの映画が志向するフォルムやスタイルが、映画の主題を支えることに結実していないように見えてしまうからだろう。見た目としては決まっている映像のひとつひとつが、登場人物たちが抱える「葛藤」やセリフの「重み」のようなものを捉える域に、どうしても到達しきれていないように思えるのだ。だから、実直で誠実そうな兄が起こしてしまう交通事故なども、取り返しのつかない何事かではなく、単に物語上の瑣末な伏線程度にしか提示されていないように見えてしまう。
 もちろん、映画のフォルムと主題のどちらかにプライオリティーがあるわけではない。これらは互いに連関し合い、映画をかたちづくるものだ。だが、志はあれど実際にそれらを結びつけて一本の映画を撮ることは難しい。ましてや、フォルムや主題といった問題を放棄してまでもなお、そこに伝えるべきものがあると信じて映画をつなぎとめていくことはもっと難しい。年齢で言えばひとつ違いのジェームズ・グレイも、『エヴァの告白』(2013)ではどうしてもフォルムと主題が拮抗していないように見えてしまうのだから、おそらくこの問題はスコット・クーパーだけに限ったものではないのだろう。とはいえ、この映画を見ると『ディア・ハンター』が宿していた「重み」のようなものをどうしても考えてしまう。フォルムやスタイルを放棄してまでも伝えるべきものがあるという「揺るぎなさ」や「重み」を(それゆえ尺は180分を超えていた)、人物たちのセリフのひとつひとつに、友人を見つめるデ・ニーロのまなざしのなかに、自分の頭に向けたピストルの引き金を引くクリストファー・ウォーケンの顔のなかに、私たちはたしかに見出していたはずだ。狂気も恐怖も友情も希望も通り越し、その人物の存在そのものを賭けるかのように引き金を引く男たちを映していた『ディア・ハンター』は、映画そのものもまた、自分の頭に向けたピストルの引き金に手をかけるように撮られていた(賭けられていた)フィルムだった。この『ファーナス』は決して悪いフィルムではないのだけれど、物語のラストにクリスチャン・ベイルが放つ銃弾には、そうした「重み」こそが足りなかった。

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