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June 20, 2015

『アクトレス ~女たちの舞台~』オリヴィエ・アサイヤス
坂本安美

[ cinema ]

シルス・マリアの雲とともに

電車の中でいくつもの携帯やコンピューターを使い、何人もの人たちとやり取りしている女性ふたり。世界的に活躍する40代のフランス人女優マリア(ジュリエット・ビノッシュ--おそらくこれまででもっとも素晴らしいビノッシュをこのフィルムでは発見できるだろう)と、そのアシスタントである20代前半のアメリカ人ヴァレンティーヌ(クリステン・スチュワート--もはや演技を越えた何かに到達しているかのようで、片時も目を離せないくらいに私を魅惑し続ける)。これまでもアサイヤス映画では、国から国へ、ものからもの、人から人へと移動していく中、そのような流れの中に登場人物たちがなんとか入っていこうとしているシーンから始まることが度々あった。そうしたアサイヤス的運動が『アクトレス』の冒頭でも示される。アルプスの中を走る列車の狭い廊下や客車がいくつもの場所へとコネクトされ、その会話の内容や相手によっては場所を移動しなければならない彼女たちの動きも加わって、そうした限定された空間が迷路のように複雑な様相を帯び始め、私たちは目印や遠近法を失い、一瞬、目眩を感じ始める。しかしそのような迷路のような流れの中で若きヴァレンティーヌがマリアの導き手となることが、彼女たちをとらえるキャメラの動きが徐々に教えてくれる(そしてヴァレンティーヌはマネージャーという立場からだけではなく、様々なものの「間」につねに立ち続けることになるだろう)。
マリアはデビュー当時に出演し、名声を獲得した舞台「マローヤ・スネーク」のリメイクへの出演をオファーされる。しかし当時自分が演じた野心に溢れ、若く魅力的な女性シグリッドの役ではなく、彼女が慕い憧れながらも、結局は死に追いやってしまう年上の女性・ヘレナの役として出演を打診される。かつてヘレナ役を演じた女優が、その後事故で命を落としていることもあって決断を迷いながらも、この作品の作家で、最近亡くなった戯曲家で監督のヴェルヘルム・メルヒオールへの敬愛の念、彼の妻との信頼関係、そしてヴァレンティーヌによる説得の結果、結局、ヘレナ役を引き受けることになる。
そのリハーサルのためにマリアとヴァレンティーヌが、アルプスの山々と湖に囲まれたスイスのオーバー・エンガーディン地方、マローヤとシルス・マリアの間にあるメルヒオールの家に移動するところからこの作品の二部、まさに核の部分が始まる。この地方はトーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、ジャン・コクトー、画家のジョヴァンニ・セガンティーニ、そしてフリードリヒ・W・ニーチェにインスピレーションを与えてきたことで有名だが、毎夏をこの地で過ごしていたニーチェは1881年8月に次のように書き留めている。「シルス・マリア、そこは海から6500メートル高いところにあるが、人間のあらゆる事物からはさらに高いところにあるだろう!」。 このシルス・マリアという土地、メルヒオールの家に宿る記憶、かつてマリアが演じたシグリッドという女性、あるいはヘレナを演じ死去した女優、そしてビノッシュとアサイヤスがそのデビュー時に女優と脚本家として関わったアンドレ・テシネ『ランデヴー』の亡霊たち。そんな幾重にも重なる過去を背後に、マリアとヴァレンティーヌは戯曲の読み合わせを始める。ストーリーの大筋は語られても、その細かい部分や秘密は明かされぬまま、ふたりの読む台詞が戯曲を越えて彼女たちの人生と混ざり始める。

マリア:どうしてこんな芝居が再演されるために手助けしなければならないのかしら。
ヴァレンティーヌ:あなたがシグリッドを演じたときにはそんなことを口にしなかったときっと思うけど。
マリア:あー、シグリッドを演じたときは子供だったのよ。その時はそんなことを問うことさえなかったわ。
ヴァレンティーヌ: SF映画の中のジョアンのように?
マリア:そうね、おそらく。
ヴァレンティーヌ:そうした無垢さ、無邪気を取り戻したいと思わないの?
マリア:無垢さは二度は持てないものよ。
ヴァレンティーヌ:持てるわ。シグリッドを受け入れた時のようにヘレナを受け入れればいいじゃない。確かに強さと結び付いた方が、弱さと結び付くよりも容易いわ。若さは成熟さよりもよしとされる。残酷であるほうが格好良く、苦しむことは最低、ひどいってね。でも彼女は、ヘレナは成熟していると同時に無垢でもあるじゃないかしら。彼女なりに無垢であり、だから私は彼女のことが好きなの。


芝居の稽古をするふたりのスリリングなやり取りがときに心を揺さぶるのは、シグリッドとヘレナという登場人物のありようが、それを演じようとするマリアとヴァレンティーヌに、そしてそんな彼女たちを演じるジュリエット・ビノッシュとクリステン・スチュワートへと、二重、三重に重なり始めるからだ。ヴァレンティーヌがヘレナという登場人物について述べる「無垢さ」という言葉は、マリア自身、そしてビノッシュを形容しているように思える。過去を背負いながらも、マリアはヴァレンティーヌに導かれつつ目の前で起こる新しい出来事を、かつての若かった彼女がそうであったように恐れを抱きながらも発見しようとしている。
こうして、ときに彼女たちの会話と台詞の区別さえつかなくなるほどふたりはその戯曲を生き始める。そして彼女たちの言葉、台詞が、徐々に私たち観客ひとりひとりの中に響き始める。まるで「マローヤ・スネーク」と呼ばれるあの雲のように、ゆっくりと、周囲の大気、山々、湖と混ざり合い、流れていくように、私たちそれぞれの過去、失ったもの、人、自分自身の謎、内なる声と混ざり合ってゆくのに気づくのだろう。そしてヴァレンティーヌは雲とともに、姿を消す......。はたしてマリアはまた指標を失い、前に進めなくなってしまうのだろうか。

アサイヤスの映画の中で、「継承」はつねに重要なテーマとして扱われてきた。しかしそれはたんに古いものから新しいものへと至る、一直線の運動ではない。マリアは舞台本番直前に、シグリッドを演じる旬の若手ハリウッド女優(クロエ・グレース・モレッツ--まったく迷いのない切れのいい演技が気持ちいい!)から、きっぱりとマリアの抱く過去への郷愁を否定される。同時に、若いアメリカの映画監督からは、時代と寄り添うばかりでなく、時代と向かい合うそれぞれに各々の選択が残されていることを示される。過去と現在、そして未来の間の絶え間ない往来、それらが混在する渦の中に身を置くことでしか、私たちの生きるこの世界を捉え直し、世界を発見し直すことができないことを、『アクトレス』はこれまでのアサイヤス作品以上に、素晴らしい俳優たちのアンサンブルを通して私たちに示してくれる。
ラストシーンのマリアの表情はけっして諦念を表しているのではなく、そうした混沌の中へと足を踏み出し、つねに無垢なる心で新たな発見の旅に出る覚悟を示している。マリアとは、この作品の作家であるアサイヤス自身であり、私たちのことでもあるだろう。間違いなくアサイヤス映画の集大成、最高傑作である本作は、彼自身の新たな旅、あるいは挑戦であり、その決意と勇気に心からの賛美を送りたい。


*本作はフランス映画祭2015にて上映され、その後2015年秋、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次ロードショー予定

『アクトレス 〜女たちの舞台〜』
2014年/フランス・スイス・ドイツ・アメリカ・ベルギー/124分/シネスコ
監督:オリヴィエ・アサイヤス
出演:ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツ
配給:トランスフォーマー


  • 『カルロス』オリヴィエ・アサイヤス 田中竜輔