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November 2, 2015

『パリの灯は遠く』ジョゼフ・ロージー
高木佑介

[ cinema ]

よせばいいのにロベール・クライン(=アラン・ドロン)は自分と同じ名を持つもうひとりの「クライン氏」を追いはじめる。ナチス占領下のパリでユダヤ人から美術品を安く買い叩くクラインと、ユダヤ人と思しきもうひとりのクライン氏。単純に話の筋だけ追っていくと、出来の悪いミステリーを見ているかのような気がしてくる。自己の分身を追いかけることの不毛さ、あるいはその裏返しとしてのアイデンティティーの再獲得。もしくは実はすべてが冗談であったりとか、実はクラインはパラノイアだったとか単純にただの人違いだったりとか。そんな結末に転んでもおかしくはない物語の展開であって、むしろ現代においてはそのあたりで口当たり良くやめておくほうが主流だろう。だが、何度見てもロージーのこの映画はそうはならない。何度見ても、クラインは「ユダヤ通信」を受け取ったことをきっかけにもうひとりのクライン氏を追いかける。画面には誰もそこから逃れることができないような雰囲気が終始渦巻いていて、時折自身の姿を鏡で見たりもするクラインは、自分の立場が危うくなってきても「クライン氏」を追うことやめない。よせばいいのにクラインはクライン氏のアパートに赴いて、やめておけばいいのにクラインはクライン氏の愛人の邸宅に行ってしまう。荒れた廃墟のようなそのアパートには、何か決定的な証拠があるわけではないのだが、本棚にはメルヴィルの『白鯨』があって、追ってはいけないものを追いかけて破滅へと至る船乗りたちの軌跡が描かれてたその本のページを繰ると、あいだに古い写真のネガが挟まっている。それを現像するとクライン氏らしき人と女とシェパードが写っていて、汽車に乗ると向かいの席になぜかその写真の女が座っていたりと、もうひとりの自分はたしかに近くにいるのだが、そいつはすんでのところでいなくなってしまう。最初は好奇心と自身の身の潔白の証明のためだった追跡が、いつしか狂気じみた執着に変わっていく。何度もクライン氏のアパートに足を運ぶクライン。警察の前で「インターナショナル」を嬉々として聴くクライン。写真に写っていたシェパードのようなシェパードを家で飼いはじめるクライン......。「分身」の不在ゆえの強烈な存在感が、駄目だとわかっていても、クラインと見る者にその影をどこまでも追わせてしまう。
このフィルムの凄さはいったい何なのだろうと見るたびに思う。赤狩りによってアメリカを追放されたジョゼフ・ロージーが撮るユダヤ人強制収容の光景の暴力的なまでの生々しさ、「唯一無二」の存在の「分身」を追いかけるアラン・ドロンの姿、アレクサンドル・トローネルによって再現される占領下のパリ。クラインによるクライン氏追跡の裏で、競輪場が改築され、黒塗りの車が走り回り、少しずつ強制収容の準備が進められていく。終わりのない破滅が映画のなかで着実に頭を擡げる。上映後のトークで中原昌也が言っていたような「ひとごとではない」光景と時間が見る者の上を覆っていき、人種や国籍といったアイデンティティーが、クラインの不毛な道程とともにその意味をだんだんと失っていく。それまで自身のアイデンティティーにこだわっていたはずのクラインは、はじめて自分の名前をゲシュタポの前で偽るが、顔見知りの郵便配達人との切り返しによってあっけなく連行されてしまう。強制収容の場に変わった競輪場には、胸に黄色いダビデの星をつけている者もそうでない者もいて、監督による演出なのかそれともそうではないのか、男が誰かに向かって「人殺し!人殺し!」と叫んでいる。気がつくと、ロベール・クラインは乗ってはいけない列車に乗ってしまっていて、その背後には冒頭で彼に絵画を売りにきたユダヤ人の男の顔がある。
ひとつのフィクションとして消化することのできない時間がこの映画には満ちていて、それが「ひとごと」とは思えなければ思えないほど、そこから溢れ出す破局的なイメージは、「いまここ」を取り巻くさまざまな物事と自然と重なり合っていくかのようだ。クラインがクライン氏と一致していくかのように、このフィルムは現在にあまりにも似てしまっている。

アンスティチュ・フランセ東京<アラン・ドロン特集:唯一無二、そしてその分身>(第28回東京国際映画祭提携企画)にて上映

  • 『ディパーテッド』マーティン・スコセッシ 梅本洋一