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December 23, 2015

『独裁者と小さな孫』モフセン・マフマルバフ
常川拓也

[ cinema ]

「狂気が世界を支配し、人類の自由が失われていた頃の物語」──チャールズ・チャップリン『独裁者』は冒頭にこのように説明される。およそ75年前に警鐘が鳴らされた世界から現代はある意味では進歩していないのだろうか。そう思えてしまうほど、この文言は『独裁者と小さな孫』の冒頭に付けられていてもおかしくないかもしれない(その意味で、本作で独裁者と孫の最初の逃亡先が「床屋」なのは意識的だろう)。
何の躊躇や葛藤もないままに政治犯への死刑執行を書類で決める大統領──舞台設定は「名も知れぬどこかの国」とされている──は、孫息子に「大統領の持つ力」を電話一本で街の灯りすべてを消すことで見せつける。孫息子も大統領である祖父をマネて、まるでおもちゃのように電話口から街の灯りを消させて楽しむが、突然、命じても灯りが点かなくなる。街の電気が消えると同時に、暗闇の中、大統領はクーデターにより失墜する。モフセン・マフマルバフが描いたこの寓話の中では、至る所で物事がこのように二重性を伴っているように思える。彼らが逃亡の途中、整備された清潔なトイレしか知らずに育った孫息子が便意を覚え、生まれて初めて外で用便しようとした際、祖父に向かって「お尻を洗って」と言う場面は象徴的だ。祖父はそれに対して、「尻は自分で洗うんだ」と返答する。そして「やったことない」と困惑する孫に、「私もだ」とすら祖父は言う。この祖父、すなわち独裁者は、自分で自分のケツを拭いたことのない、自分の不始末を責任を持って処理したことのない人物なのではないか。そのように、この一連のやりとりは響く。罪多き独裁者と純真無垢な孫息子という全く対照的なふたりが、豊かな都市生活から一転して貧しい人々の過酷な暮らしぶりの中へと逃亡していく──孫息子はこの逃亡を祖父とともに貧乏人に扮装する「ゲーム」だと思っている。このロードムービーは、大統領が自身が行ってきたことのツケを直視していく物語だと言えるだろう。シンプルな物語が細部の意味の豊かさによって強靭に推し進められていくのである。
他者を顧みずに裕福な生活を送ってきた独裁者の側から観客に貧しい人々の悲惨な現実を直視させていく構成は、安易に私たちに感情移入させないようなセンシティブな作りではあるが、最も心を動かされるのは、独裁者が必死に孫息子を守ろうとする姿でも、抑圧されてきた民衆の荒々しい暴力とともに目の前に広がる惨禍でもなく、何度も何度も踊る、孫息子の健気で勇敢なダンスにあると思う。時に、羊小屋で旅芸人に扮した大統領からギターを弾いたら踊るように教え込まれた孫息子は、これから予感させる身の危険を彼だけはあたかも何も知っていないかのように、好意を寄せるマリアと一緒に宮殿でデュエットしていた記憶を思い出しながらくるくると踊る。時に、娼館で待つ客の男の弾くギターの陽気な音色に身体を合わせる孫息子は、その待ち部屋の隣で行われている性行為の悲惨な実情など知ることもなく、子どもに似つかわしくない場所で踊る。あるいは、身を隠した大統領は敵対している政治犯たちと行動をともにしていく中で、彼は自分が多くの無実の人間を苦しめてきたことを悟るわけだが、大統領が彼らと輪を描いて酒を回し飲む間、孫息子は彼らの心身に染み付いた傷に対して──こんなつまらない「ゲーム」が早く過ぎ去り、家族やマリアとのあの楽しい時間が戻るよう──祈りを捧げるかのように踊る。
マフマルバフは、これまでにも『パンと植木鉢』や脚本作『一票のラブレター』などで民主主義への願いを込めた作品を作ってきた。例えば、『サイレンス』の劇中ではオマル・ハイヤームの詩の一節が引用されていた──"昨日のことをとやかく言うべからず。明日のことを嘆くべからず。決して未来や過去に頼らず、今を大切に。時間を大切に"。また、『サイクリスト』では7日間自転車を漕ぎ続けるチャレンジをする主人公に対して、それを実況する司会者が「真の豊かさとは心が生み出すもの」「人間には希望が必要だ。魂の病こそ、不治の病なのだ」と言っていたことも思い出される。
『独裁者と小さな孫』において、小さな男の子が見せるダンスには、病に侵された国や国民全体への望みや祈りが込められている。そしてその踊りは、常に近づく危険や危機を回避しようとするかのようになされているのである。民主主義のために踊れ──マフマルバフが示したひとつの解答は、綺麗事かもしれない。しかし、ただひとり踊り続ける無垢な小さな身体が示す行為というのは、搾取や強欲に染まった世界へのささやかな対抗手段であり、ファシズムへの抵抗のダンスなのだ。どんなに味気なく惨めな環境であっても踊ることをやめないことが、魂を圧殺されないようにする私たちの抵抗であり、それはすなわち夢を見ることをも諦めない強さなのではないか。物語の終盤、ようやく逃亡の目的先である砂浜に着いた孫息子が、そこで砂の「宮殿」を築く。しかし、独裁者の首を狙う民衆たちに彼らは捕まってしまい、ラストカットではその「宮殿」は押し寄せる波で崩れていく。独裁の象徴が民意によって崩壊し、まっさらになった地面が一瞬、映し出される。夢や理想論が綺麗事としてしか消費されないような時代に、マフマルバフは無垢な踊りによって私たちの強さを、私たちのあり方を示したのであろう。あるべき民主主義への第一歩の願いを込めて。

新宿武蔵野館にてロードショー中