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August 29, 2016

『エミアビのはじまりとはじまり』渡辺謙作
隈元博樹

[ cinema ]

 幸福の先に訪れる死の予感は、絶えず映画の中で描かれてきたことだと思う。その例は枚挙に暇がないものの、たとえば北野武の『ソナチネ』は、沖縄の海辺で悠々自適な相撲遊びに興じていたヤクザたちを、またたく間に銃弾の飛び交う抗争の場面へと誘なっていく。またヤン・イクチュンの『息もできない』は、わだかまりを抱える男女が和解を遂げた矢先、女の弟による男への復讐によってその幕を閉じることとなる。こうして幸福が死と隣り合わせにあることの証左ならば、その転換点には免れることのない暴力の存在が裏付けられている。しかしこの『エミアビのはじまりとはじまり』には、幸福から死へと転換させるための暴力が十全に機能しているわけではない。もっともこの映画が興味深いのは、幸福を経たのちに訪れる死と並走しつつも、その先に来るべき新たな幸福を自らの生気によって享受しようとする点にあるのではないだろうか。
 漫才コンビ「エミアビ」の実道(森岡龍)は、相方の海野(前野朋哉)を不慮の自動車事故によって亡くしてしまう。人気実力ともに急上昇中の最中にあって、海野の死はまさに幸福からの転落だと言えるだろう。残された実道は元芸人の先輩である黒沢(新井浩文)のもとを尋ねるが、それは漫才師としての今後の方向性を問うだけでなく、海野とともに亡くなった黒沢の妹である雛子(山地まり)への供養でもあった。幸福の先に訪れた死の周縁によって、失意の底に伏した実道と黒沢。しかしそれも束の間「俺を笑わせてみろ!」という黒沢の鶴の一声は、実道のピン芸人としての力量を試すばかりか、死の淵に取り残された者たちの痛々しいまでの生の姿をひけらかす。そしてこの混沌とした状況に突如現れたパンダメイクの夏海(黒木華)と、彼女が掲げる「ドッキリ!!」の大看板は、黒沢が実道に仕掛けた罠であることを告げるとともに、彼らを死の淵から救済するための笑いへと還元され、さらには海野や雛子の死を改めて自認する泪へと変わるのだった。その後も彼らは相方や身内の死に留まるだけでなく、比喩としての「跳ぶ」を合い言葉に、そこから滲み出る笑いの生成に努めようとする。それはまるで此岸と彼岸の裏表を持った1枚のコインが、暴力にも似た笑いの生気によって絶えず回り続けているかのようにさえ見えてくるだろう。
 だからこそ冒頭から挿入されるエミアビの漫才は、どちらの裏表にも属すことのないある種宙づりのような場面に見えてくる。観客の笑い声しか響くことのない黒バックのステージが、はたして彼らの死後なのか、それとも生前なのかを特定することはできない。しかしここが一度彼らの跳んだ世界であるならば、実道と黒沢による新たなエミアビは、海野や雛子の死を経てもう一度跳ぶことを選んだ。ステージへと向かう彼らに降り注ぐ楽屋口の閃光は、目映くも美しい。これが彼岸でも此岸でもなく、彼らがもう一度跳ぶための境地に近づくのであれば、ふたりの漫才をもう少し見たくなった。

9月3日(土)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー
※バックナンバー「NOBODY issue41」では主演・森岡龍さんのインタヴューを掲載しております