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September 1, 2016

『ケンとカズ』小路紘史
若林良

[ cinema ]

本作は主人公であるケンとカズ、そして彼らの弟分のテルが、対立する組織の下っ端に喧嘩を吹っ掛ける場面から始まる。そこでの決着がついたあとに、ケンとカズを下から見上げるようなショットが印象的だ。前方にしゃがむカズと、後方からカズを見下ろすケン。本作において両者の「顔」が正面からはっきりと見える場面は、この対照的な姿勢のふたりを捉えたショットを除けばほとんど存在しない。物語は、妊娠した彼女や認知症の母のような個々の生活の問題を抱えたケンとカズが、それぞれ金を必要とし、そのために麻薬密売に足を踏み入れてしまい、破滅の道を歩むばかりではなく、彼らの間の友情さえも失いかける、といった流れで進む。最後には彼らは友情を取り戻すことになるのだが、それは端的にいって「距離を詰める」行為として映し出される。
ふたりの間の距離がなくなることが、なぜ本作において重要なのか。その理由についてはさまざまな要素が考えられるとはいえ、冒頭のシークエンスの暗示に始まって、距離の存在が執拗に強調されることに恐らくは起因する。ひとつにはクロースアップカットの連打による、ひとりひとりの「顔」が強調されることがある。一方の顔がクロースアップで映されることで、当然のことながらもう一方の顔は映されない。より具体的には、前述のような会話の切り返しショットにおいて、ケンとカズの視線が向くのは、劇中においては言うまでもなく相手のカズ、もしくはケンであるが、その視線の向きが並列的に示されることはない。ふたりの物理的な距離自体は決して離れているわけではないが、同じフレームに共存するようにはほとんど映されないことによって、彼らの断絶はより強調されることとなる。
画面には彼らふたりの姿が始終頻繁に映し出されるが、会話においてはつねにすれ違いが目立つ。彼らは自身が抱えた問題をお互いに打ち明けることなく、それが相手に知られるものとなってからも、意志の疎通にはぎこちなさが伴ったままだ。また中盤、ふたりは初めてお互いに拳を交えることとなるが、その発端となるお互いのアキレス腱を正面から突いた台詞の存在や、その後のカズが母親の首を絞めようとする行動と、ケンが彼女である早紀に家族のやり直しを留守電で告げる行動が対照的なものとして交互に示されることで、ふたりが対極の位置にいるような印象を観客は受ける。
本作の登場人物は最小限に絞られているが、ふたりの姿がどちらも画面に登場しないのは、早紀がケンの留守中に通帳を確認する場面などごくわずかに限られる。作中で大きなウェイトを占めるふたりの会話は、多くの場合切り返しショットか、ふたりの横顔のショットであり、正面から捉えられたふたりの顔が再びはっきりと映し出されるのは、終盤、傷ついたケンをカズが支えながら歩くシークエンスである。そこではふたりの体はしっかりと密着しており、距離そのものが消失している。これは冒頭におけるふたりの位置関係に見られた対照性とはまるで異なるものだ。
本作においては執拗なまでに暴力が描かれるが、それは拳と拳の肉弾戦で、相手を失神されることはあるにせよ、生命を奪うまでには至ることはない。しかしながら、ラスト手前、この映画における唯一の凶器=ナイフが満を持して示されることで、このふたりと画面に向かう私たちは、はじめて「死」を意識する。暴力の積み重ねの先にある、臨界点のような存在としてナイフが示されることで、反動的とも言えるその後のケンの行動、またふたりの距離の消失に説得性がもたらされるのである。
一度は離れてしまったふたりの男の距離が近づいていく。本作はただそれだけの映画なのかもしれない。しかし、ここでの「近づく」という行為は、1から1を引けば0になるといった、数式のような自明のものではなく、ギリギリのサスペンスの先に初めて見えてくるものである。それを引き立ててくれるのが、わかりやすく泣き笑いや感情の起伏を見せない個々の登場人物の「顔」なのだ。特にカズのそれは次に何をしでかすのかわからない、危険性を常にたたえたものである。なぜそこまでして「距離の消失」というものに固執するのか?そのような疑問を呈することは簡単だ。しかし、このような単純な運動への執着にこそ、映画というメディアの原点はあるのではないか。『ケンとカズ』はその暴力的な様相とともに、私たちに映像のもつ原初的な運動の快楽を想起させる作品でもあるのだ。

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