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October 11, 2016

『チリの闘い』パトリシオ・グスマン
稲垣晴夏

[ cinema ]

1970年、チリでは世界で初めて民主的な選挙によって社会主義政権が誕生し、サルバドール・アジェンデが大統領に就任した。本作は政権を支持し共に社会主義を目指した労働者たちと、軍部やアメリカと画策してこれを妨害しようとする富裕層との階級間の対立を、全三部の巧みな構成をもって描く。
本作において、路は富裕層と労働者の間の緩衝帯として町に横たわっており、そのためおのずと闘いの舞台として幾度も映し出される。第一部でとくに強調されるのは、ブルジョアジーへ反論する民衆がスクリーンからあふれ出るほどの密度で路を埋め尽くす様子である。このことは空間的な占拠にとどまらず、貧しきものたちに希望を与え、富めるものたちの不安を助長させていく。普段通りに働き、団結して行進すること、このシンプルな行動だけで民衆は武器無き闘いを遂行する。しかし、不安を煽られ彼らと反対に武器を手にしたブルジョアジーによって、第一部の衝撃的なラストシーンは引き起こされ、続く第二部では、かろうじて二者を調停していたはずの路上が銃声と煙、サイレン音につつまれる。武力による路上の支配に続くのは最後の砦であった宮殿への爆撃、アジェンデの死であり、その最後の演説で静かに第二部は幕を閉じる。
ここで、第三部はこの悲劇的な結末をまるっきり違うものへと変えてみせる。第一部よりも前のアジェンデ政権時代まで時を巻き戻して始まる三部は、アジェンデと支持者たちを生き返らせて、再び同じ時代を語り直そうとする。その意図は、第三部半ば、あたたかな陽光のなか山積み資材の荷車でカタカタと心地よい音をたてながら前へ前へと疾走する青年の動きによって説明される。第二部の路上の不自由さを吹き飛ばすように、誰にも邪魔されることのないのびやかで奔放なその動きは、深刻な闘争のさなかとは思えないほど可笑しげで、それでいてカメラも私たちも追わずにはいられないひたむきで純粋なかがやきをもっている。これこそが第三部の主題であり、たとえ事実としては敗北していても、民衆の動きにはこの革命を歴史として語るうえでけっして見逃すことのできない重要なものがあったことを私たちに示す。支配者がいなくなった工場で、自分たちの社会のために自発的に生産をはじめる労働者たち。運送会社のストにより街の交通機能が麻痺したときには、工場のトラックに階段代わりの脚立を紐でくくりつけた手作りのバスで仲間を仕事場へと運ぶ。人手不足の工場は組合の力で生産力を維持させ、地域ごとの労働を組合で管理する独自のシステムも生みだす。
第三部は人びとのこういった柔軟な精神と豊かな動きに目を向けて、第一・第二部の時代をいまいちど編み直すことで、彼らの闘いを現在さらには未来のものにする。荷車の青年が運ぶのは物質的には彼らのその時代の社会を形作る資材であるが、おそらく同時に、はるか昔から時代を超えて人類が運びつづけている希望の塊のようなものでもあるのだろう。彼らの運動はこうして荷車の青年とともに、ときも場所も軽々とこえて、今の時代の私たちへと伝わっていく。


渋谷ユーロライブ、横浜シネマリン、名古屋シネマテーク、フォーラム仙台、シネマテークたかさきほか、全国順次公開予定