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October 22, 2016

『ハドソン川の奇跡』クリント・イーストウッド
樺島瞭

[ cinema ]

2009年1月15日、150人の乗客と5人の乗員をのせたエアウェイ1549便は、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立った2分後に、バードストライクに見舞われる。エンジンが停止したエアバスを、機長のチェズリー・"サリー"・サレンバージャーは、咄嗟の判断と巧みな操縦によって、ハドソン川――その左岸はマンハッタンの高層ビル群である――に、ひとりの犠牲者も出すことなく不時着水させる。邦題にもなっているこの「ハドソン川の奇跡」は、しかし本作において、現在形で描かれることはない。代わりに現在形で描かれるのは、事故調査委員会からペテン師の汚名を着せられたサリーが、その汚名をそそぎ、晴れて英雄となるまでの経緯である。本作はいわば「ハドソン川の奇跡」の後日談なのだ。
映画は「ハドソン川の奇跡」が起きた日の夜から始まる。翌日の事情聴取に備えて、ホテルの一室で眠っていたサリーは、昼間の出来事がとりえた別のありようを悪夢に見る。冬晴れの午後のマンハッタンに、突然轟音とともに墜落してくる飛行機。逃げ惑う人々。サリーは恐ろしさのあまり目を覚ます。
本作において「ハドソン川の奇跡」は、三つの長大なフラッシュバックによって、少しずつ違った角度から視覚化される。『羅生門』からの影響を感じさせなくもないこの構成は、しかし様式美とは無縁であって、何よりもいびつさが際立っている。とりわけいびつなのは、一つ目と二つ目のフラッシュバックが、フラッシュバックの開始を観客に告げる常套的な表現――顔のクローズアップや、遠のいていく環境音といったもの――をまったく欠いている点である。観客はそのために、すぐにはそれがフラッシュバックだとは気付かないだろう。こうしたいびつさは、過去のイーストウッド作品においてすでにお馴染みのものである。しかしイーストウッドは本作において、新境地を開くことに成功している。みずからの映画に「反復」という新しい主題を導入したのだ。ある決定的な出来事が生じた後に、その出来事を、生じたとおりの形においてだけではなく、生じえたかもしれない形や、生じえなかった形においても繰り返すこと。そのことに、本作のイーストウッドは憑りつかれている。その実践のために持ち出されてくるのが、夢であり、幻覚であり、そしてシミュレーションである。
「空港に引き返すことも可能だった」という、自身に不利なコンピューターシミュレーションの結果に疑念を抱いたサリーは、クライマックスの公聴会のシーンにおいて、その結果をプロの操縦士にフライトシミュレーターで追試してもらうことで、みずからに着せられた汚名をそそごうとする。このシーンはまさに圧巻である。「ハドソン川の奇跡」が、パラメーターを様々に変えつつ、幾度も反復されるのだ。このシーンでの同一アングルの固定ショットの用法には、どこか小津安二郎を思わせるものがある。しかし小津の映画と違うのは、反復が必然的に生み出すある種の滑稽さが、徹底して抑圧されている点である。その結果、このシーンはユーモアとは無縁の、息もつけないほど強い緊張感につらぬかれたものとなっている。それでは、本作に反復のユーモアは皆無なのだろうか。そうではない。本作はそれまで固く抑圧してきた反復のユーモアを、最後の最後で一気に開放するのだ。
結末において、コンピューターシミュレーションはサリーに不利になるように仕組まれていたことが判明する。事故調査委員会の座長はみずからの誤りを認めたのち、サリーと共に追及の対象となっていた副操縦士に、次のような奇妙な質問をする。「"もう一度"この事故に遭ったならば、今回とは違ったことをしますか」。副操縦士はニヤリと笑って答える。「1月じゃなくて、7月に遭うよ」。この「不謹慎」すれすれのジョークに、サリーは思わず相好を崩す。映画は、笑みを浮かべたサリーのクローズアップで閉じられる。
ところで、苦痛に満ちた反復を笑って肯定する存在のことを、ニーチェは超人と呼んだのであった。ここでのサリーは、まさしくニーチェ的な意味での超人だと言えよう。『ツァラトゥストラ』の次の一説を、本作のラストショットを思い浮かべずに読むのは、ほとんど困難である。「もはや人間ではなく――ひとりの変化した者、ひとりの光に取り囲まれたものとして、彼は笑ったのだ!彼が笑ったようにひとりの人間が笑ったことは、地上ではいまだかつて一度もなかったのだ!」(吉沢伝三郎訳)。


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