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February 19, 2017

『息の跡』小森はるか
結城秀勇

[ cinema ]

なんだか色味が独特だな、と思った。監督本人にインタヴューでそれを聞いてみた(2月末発売予定のNOBODY issue46に掲載)ところ「ちょっと古いHDVで撮ったからですかね......」と戸惑い気味に答えていて、特に意識したことではないと言う。鮮やかではあるがどこかにじんだようでもある画の質感から、2000年代初頭の、デジタル撮影→35mmブローアップされたいくつかの作品のこと(そしてそういう作品を最近になって見直したときに覚えた感覚)を思い出した。それほど直接的に質感が似ていたというわけではないのかもしれない。ただテクノロジーの否応ない変遷の過程で、失われていく規格とその後台頭してくる規格の両方の美学を秤にかけながらつくられたそうした作品には、その後新規格によって均質化された世界から見ると、揺るがしがたく特有の美しさが存在していたりする。そんなことを思い出させる映画だった。そして『息の跡』はテクノロジーの映画でもある。
たね屋を営む佐藤貞一さんは、2011年3月11日の震災の体験を、英語、中国語をはじめとする諸外国語で記述し本として自主出版している。彼がなぜ母国語ではない言葉でそうした体験の記録を綴るのかといえば、日本語特有の情念や曖昧さを省いて書くため、というよりも省かなければ書けなかったからなのだという。つまり彼にとって外国語で書くということは、そうでなければ書くことのできないことを書くための技術だったのである。映画の中で、佐藤さんが特許をとった新種のトマトとその技術を記した書類を監督に見せる箇所がある。佐藤さんは「この図面の描き方が英文の書き方と一緒なんだ」と言う。それを聞いた画面の外にいる監督は言う、「でも、似てる!」と。おそらくテクノロジーとして通じているのは文章を書くことと本職のたねつくりの間だけではない。映画の冒頭に登場するいまいちなにに使うのかよくわからない「へのへのもへじ」が描かれた棒、給水器に描きこまれた顔、チョコレートの空き箱でつくる苗の入れ物、手作りの風車など、画面にはたくさんの佐藤さんの手による創作物が映りこむ。さらに佐藤さんの知識は、語学、植物学だけにとどまらず、歴史学、民俗学、航空力学(白鳥の飛び立つ姿)にも及ぶ。
これだけインターネットが普及した時代に、わざわざ出版というちょっと古いテクノロジーを佐藤さんが用いていることが興味深い。情報をたんに速く広範に最短距離で拡散させて届けるためならば、この旧式なテクノロジーはSNS等にだいぶ劣っている。だが、佐藤さんが劇中で語るスペインの宣教師ビスカイノの話をふと思い出す。江戸時代に三陸を襲ったある大津波の記録は現地にはほとんど残っていない。しかし遠く離れたスペインの地には、いまだその惨状を記載した書物が残っている。佐藤さんにとっての記録であり記憶の伝達という作業は、ビスカイノの書記に似た、遠さ、遅さ、迂回のようなものを伴っている。
どうも彼がそれを届けたいのは、いまここにいるなるべく多くの人々、というだけではなさそうなのだ。いまここにいる人々がすべて消え去ったとしても、まだそこにいる誰か、そんな人に向けて彼は記述し、そして朗読しているように思う。そしてそんな彼を無意識にちょっと古いHDVで記録してしまった監督の姿勢にも、それと同様なものが感じられる。この歴史上にたった数年しか存在しなかった、こじんまりとしたたね屋の店内を中心に構成されたこの豆粒のように小さな作品は、そこに映ってはいない長大な時間と広い世界のことを考えさせる。


ポレポレ東中野にて上映中