« previous | メイン | next »

March 2, 2017

『マリアンヌ』ロバート・ゼメキス
結城秀勇

[ cinema ]

モロッコっぽさを出そうなんて気は毛頭ないように思える、あの書き割りめいた砂漠にパラシュートで降り立ったマックス(ブラッド・ピット)は、砂漠の道を歩く途中で、自動車が砂埃をあげて近づいてくるのを目にする。それは物語上、マックスをカサブランカに連れていくために遣わされた味方の車なわけだが、自他ともに認める腕利きスパイであるマックスは警戒を怠らず、腰のホルスターのボタンを外し、銃に手をかけたまま近づいていく。......そして同じカットのまま、車のドアを開け、乗り込む......。いやいや、しかし、このときマックスはいったいなにを基準に、この車が味方のもので乗っても大丈夫だと判断したのか。どのくらい近づいたときに警戒を解いたのか。運転手もけっこう怪しそうな感じなのに。マックスが警戒を解くに足る距離感や目印、危険と安全の境界線のようなものが、もしかしてこのカットのどこかに映っているのかもしれないが、遠くてよくわからない。
同じことは、ドイツ大使が出席するパーティへの招待状をマックスとマリアンヌ(マリオン・コティアール)が手にいれようとするシーンで、ナチのホバー氏から出されるふたつのテストにも言える。机の引き出しから取り出されたカードはどの程度の巧みさでカットされれば、疑いが晴れたというのだろう(マックスの手つきはもはやポーカーが好きとかそういうレベルじゃねえだろ、という鮮やかさだった)。燐酸塩の化学式が正しく書けたからどうだというのだろう(そもそもどのくらいの観客が、あの化学式が正しいと判断できるというのか)。そのテストで示されるのはマックスが工作員としてとびきりの腕ききだというパフォーマンスがなされたこと、そしてそのことに敵も味方も(観客も)満足したっぽいことだけだ。成功と失敗の境界線があるとして、マックスはそれを成功側にとんでもなく踏み越えた地点を行くので、もともとどこにその線があったのかがよくわからない。よくまあこれで4割生き延びれると思えたな、というあまりにも杜撰な大使暗殺作戦を、彼らはものの見事に成功させる。
「Allied」という原題をもつ『マリアンヌ』は、その名の通り第二次大戦中の連合国と枢軸国との対立を舞台としている。だからどこかに敵と味方を線引きする境界線はあるのだろうが、いったいどこにあるのかがよくわからないのだ。別に「こんなナチ野郎、ぶっ殺してしまえ!」と思うような敵が出てくるわけでもない(むしろマックスの拘置所襲撃に巻き込まれたヤツらは、かわいそうとすら思う)。カサブランカの屋上の営みを覗く隣人が不気味なのは別に彼女がドイツ側の人間だからでもなく、モロッコ人だろうが連合国側の人間だろうが、いずれにしろ気持ち悪い。
境界線はあるが、見えない。それはスパイものを描く上での鉄則ではあるだろうし、ましてやその上で、愛という見えないものがあるのかないのかを巡る作品では、もはや必須の要素ではあるだろう。だが『マリアンヌ』が奇妙なのは、境界線が見えないだけではなくて、そもそもその設定された位置がおかしいんじゃねえのか、と思える点にある。境界はどこかに存在するのだろう、でも少なくともこのフレームの中じゃなくねえか?と。
その明後日の方向に引かれた境界線を大きく踏み越えた地点で、マックスは過剰なパフォーマンスをする。カードの件しかり、燐酸塩の件しかり。それは物語も後半にいたり、見定めるべき境界線を連合国側の内部に探さねばならなくなってからも変わらない。妻はスパイなのか。妻をスパイだと言っているVセクションは信用できるのか。それら問題の境界がありそうな場所とは全然違う場所で、マックスはやり過ぎなスタンドプレーを続ける。なにも自分で調査しなくてもよかったし、拘置所を襲撃する必要もまったくなかった。そしてただ顔を確認するためだけに、何枚も自分たちの結婚式の写真を破り過ぎた。
やがて前半のカードのシーンと呼応するかのような、「ラ・マルセイエーズ」をピアノで弾いてみろ、とマリアンヌに強いる場面にいたる。ここでもまったく同じことが起こる。もしマリアンヌがピアノの蓋を閉じずに「ラ・マルセイエーズ」を弾き出したとしたら、どれだけの巧みさならば疑いが晴れて、どれだけの拙さなら疑いが現実のものになったというのだろう。もし彼女があとどのくらいピアノが鳴り出さない沈黙の時間を続けたら、その間マックスはかすかな希望を持ち得たというのだろう。やはりその境界線は曖昧として、見えない。しかしそこをやり過ぎなくらい遠くまで飛び越えるマックスのパフォーマンスとは違い、マリアンヌは極めて慎ましやかな仕草でピアノの蓋を閉めることで、実はこれまでもずっと自明だったことを改めて気づかせる。問題はこんなところにはない、と。
この映画で問われるべき唯一の事柄は、妻が敵か味方かではないし、彼女が嘘をついてるかどうかでもない。まして彼ら夫婦が、第二次世界大戦という壮大な舞台装置の、対立する二大勢力のどちらについているか、などということでもない。重要なのはたったひとつ、そこに愛はあるのかということだけだ。そしてそのことは、映画の序盤で明らかにされて以降、実は一瞬たりとも揺らいでいない。彼らふたりは、成功と失敗の、敵と味方の、真と偽の、その境界線のはるか彼方を行く。それがいったいどちら側だったのかよくわからなくなるほど遠くを。だから彼らが背後に置き去りにしてきた世界など、彼らが初めてセックスした朝の、視界のすべてを埋め尽くす砂嵐と同じくらい抽象的なものに過ぎない。国際社会がやたらめったらに引いた数多くの境界線は無視して、たった一本の愛という境界線だけを踏み越えて、彼らは行く。
ただ、もしこの映画のフレームの中にちょうどいい成功と失敗の境界線が唯一映り込むとしたら、それはふたりがロンドンの自宅で開いたパーティの晩、撃墜されて落下してくる敵機の軌道なのではないだろうか。その飛行機は煙をあげながら、悪夢のような現実味を伴って、正確に彼らの家を目がけて落ちてくる。二階の窓越しに見える機体が次第に大きくなり、限界まで大きくなったところで視界から消え、裏庭に墜落した音がする。わずかに逸れた死。ほんの数メートルの違いで手に入れた生。翌日、ふたりは幼い娘とともに、崩壊を免れた自宅と残骸となった飛行機との間の隙間のような原っぱでピクニックをする。生と死との間に横たわる、あまりに慎ましい広さの空間で、娘は生まれて初めて歩き出す。
たぶんそんなちょうどよい場所のことをマックスは「メディシン・ハット」と呼んだのだろう。だが、度を越してやり過ぎな腕利きである夫の職能と、「この職業で腕利きであることは、美しいことではない」と言い放つ妻の慎ましさとをもって、ふたりでそこに辿り着くのは困難過ぎたということなのかもしれない。その結果、『マリアンヌ』は、あまりにも明白すぎる愛の他にはなにもない、そんな稀有な映画になった。


全国ロードショー中