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September 9, 2017

『汚れたダイヤモンド』アルチュール・アラリ監督インタヴュー vol.1
松井宏

[ interview ]

明解さの探求 アルチュール・アラリ監督インタヴュー

つくり手の多大なる思考と、実践の苦闘がまざまざと刻まれ、ごつごつとした異質さを備えながら、それでいてなお透明な抜けの良さを獲得してしまう映画が、たしかにある。アルチュール・アラリの初長編作『汚れたダイヤモンド』はそういう作品だ。シナリオや演出やテクニカルな面はもちろんのこと、俳優について、ジャンルについて(そう、今作は「フィルム・ノワール」だ)、フィクションについて、現在のフランス映画について、ホークスとルノワールについて、フラーについて、偶然性について、あるいは明解さと複雑さについて......、アルチュール・アラリ監督からいろんな話を聞くことができた。ロング・インタヴューです。vol.1とvol.2に分けて掲載します。(vol.2は後日公開)

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──『汚れたダイヤモンド』、すごくおもしろかったです。フランス映画に限らず、ひさしぶりに「物語を語るのだ」という強烈な意志を感じた作品でした。多少いびつなところが生まれようとも、とにかく語り切るのだ、と。今回初長編なわけですが、フランス映画における初長編にありがちな──別の国籍の映画でもそうだと思いますが──自伝的要素だったり、自分の実人生を起点にした身近な題材だったりが、ここにはほとんどない。この傾向は『汚れたダイヤモンド』以前に何本か撮っている短編作品でも、すでにあったのでしょうか?

A.H. いや、まさに『汚れたダイヤモンド』で方向性を変えたんだ。というのも、それ以前の短編はどれも、なんというか、フランス映画のいわゆる「作家映画」に近いものだった。つまりもっとリアリスティックで親密で、ミニマルなプロットと語り口があって、ジャン・ユスターシュ、モーリス・ピアラ、エリック・ロメール、それにジャン・ルノワールなどの影響がすごく強くあったし、自分でもそれに対して意識的だったんだ。ある短編ではルノワールの『ピクニック』(36)のリメイクもやってみたしね。とにかく、ぼくの短編はどれも「フランス映画」のある種の環境と地続きだった。もちろんそれはヌーヴェル・ヴァーグとの繋がりだけでなく、その父たるルノワールとの繋がりのことでもある。
 どの短編も別に自伝的なものではなかったけど、自分が経験したことがつねにベースにあった。実は『汚れたダイヤモンド』の前に、何年もかけて別の長編のシナリオを書いていて、結局その企画はお金の問題で実現しなかったけど、シナリオの方向性としてはいま言ったような短編のそれにだいぶ近かった。日常を出発点にしていたんだ。舞台はフランスで、登場人物も少ない。ただし重要なのは、主人公が『汚れたダイヤモンド』のピエールに少し似ていたというか、刑務所から出てきた人物で、どこかカウボーイ的な感じで......。

──つまり西部劇っぽいシナリオだった?

A.H. そう、まさに、西部劇をつくろうというのが出発点だった。馬は登場しないけど、その代わりにバイクだ。1台のバイクをめぐって事が進んでゆく。20年間の刑務所暮らしから出てきた彼は、自分のバイクを取り戻し、そしてフランスから脱出したいと考える。彼はフランスを憎んでいる。国境を越えない限り自分に自由は訪れないと考えている。まさにフランスという国が彼にとっては刑務所だ。フランスを横断するなかで、あるとき事件が起き、ナイフで腹を刺されてしまう。そこから残りの時間は、傷ついたからだで死にゆくなか、必死に逃げる。そしてついに国境を越えてスペインに入り......。最終的に彼が死ぬヴァージョンも、死なないヴァージョンも書いた。いずれにしてもそのシナリオにはジャンル映画を志向する側面があって、そのなかでアメリカ的な影響とフランス的なプロットとを混ぜ合わせようと試みた。そして挑発的な宣言をしてみたわけだ。「フランスから脱出しないといけない」とね。つまりそれは「フランス映画は自分自身から脱出する必要がある」という、ぼくなりの宣言だった。結局この企画はなくなったけど、ぼくにとってそれは、短編のときの方向性から、つまり居心地の良い映画づくりの方向性から脱却するための、最初の一歩になった。そして『汚れたダイヤモンド』はそこを越えて、「純粋に」映画をつくることを引き受けた作品になった。いや、けっしてそこまで「純粋に」というわけじゃないけど、いずれにしても「ジャンル映画をつくろう」という出発点からスタートした作品だった。

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──ちなみにフランス映画におけるアメリカ映画の影響は、徐々に小さくなっていると思いますか?

A.H. いや、小さくなっても大きくなってもいないと思う。アメリカ映画の影響はつねに変わらず強く存在している。アメリカ映画は50年代からずっとフランス映画にとって大きな問いだったし、重要な軸でありつづけていると思う。たぶん他の多くの国にとっても同じじゃないかな。ただしご存知の通りフランスの特殊性もある。批評との繋がり、そして作家主義との関係だ。それはとても豊かな土壌を生み出したと同時に、ある種の大きな障害も生み出してしまった。正直なところいまは、ぼくの目には障害のほうが大きく見えるけど......。とにかく、フランス映画におけるアメリカ映画の影響はより小さくなってもいないし、より大きくなってもいなくて、相変わらず強く存在しているはずだ。そういう状況のなかで、意識的にアメリカ映画から逃れ、あえてフランス映画の伝統のなかに留まろうとする、そんな立ち位置を明確に取る映画作家もいる。ぼくはそれもありだと思う。たとえばギヨーム・ブラックがそうだ。勘違いしないでほしいけど、これはナショナリスト的なこととはいっさい関係がない。たしかにギヨームは最新作『やさしい人』(13)のなかで、ピストルや突発的な暴力といった、ジャンル映画に向かうような要素を導入した。ところがそこには、少なくともぼくにとってはそうだったんだが、目に見えるようなアメリカ映画の影響がいっさいなかった。ぼくとしてはとても驚いたよ。彼の領土は「フランス」なんだ。だからといって彼がアメリカ映画を嫌っているなんてことはない。まったく逆で、つねにアメリカ映画に惹かれ、称賛している。このことについては実際にギヨームと話したんだ。でも彼みたいな存在はフランス映画のなかでも珍しい。
 それといまアメリカ映画の影響は、いくつもの傾向に分かれている気がする。たとえばいまでも古典的なシネフィルとしてアメリカ映画の影響を受けているトガった映画作家たちもいるし、一方でもっと最近の影響というのもある。たとえばガス・ヴァン・サント。ある時期あからさまな彼の影響があって、それはいまでもつづいているはずだ......。いずれにしても、アメリカ映画という問いとのケリはいまだについていない。これだけは確かだ。

──なるほど。話を戻しましょう。さっき「ジャンル映画をつくること」がこの作品の出発点だったと言いましたが、ではダイヤモンドの業界を描くというのは、どういうプロセスで決まったのか?

A.H. そもそも、「強盗もの」をつくらないかというオファーを受けたのが始まりだった。そこからすぐに考えをめぐらせ、いくつものアイデアを見つけていった。そのなかで、ある一族の悲劇というアイデア、そして復讐にまつわる映画というアイデアにたどりついた。そのときはまだダイヤモンドという要素はなかった。あるユダヤ人家族がいて、そして父親の仇を取ろうとする若者がいる。彼は父親の復讐のために、自分が憎むその裕福な家族に入り込むことを決意し、彼らが所有する非常に高価な「なにか」を盗もうとする。最初それはダイヤモンドではなかったし、舞台となる街もアントワープではなかった。高級腕時計がつくられている、スイスのある街だったんだ。そこは雪深い街で、しかも国境近くに位置していて、まさに西部劇という感じで、すごくいいと思っていた。ほとんどそこに決まるかなというところで、その当時のプロデューサーが、執筆途中だったシナリオを読んで、こう言ったんだ。「ダイヤモンド業界はどうかな。君の求めているものがすべてあるぞ。誰もが魅了される世界だし、しかもほとんど映画で扱われたことがない」。このプロデューサーは途中で企画から抜けてしまったんだけど、彼が提案するカードはどれも説得力があって、しかもハッとするようなものばかりだった。そのおかげでシナリオがいまのかたちを取ることになった。

──準備段階でダイヤモンド業界のことはかなり調べたと思いますが、それがどんどんシナリオに反映されていった?

A.H. そうだね、どうやってダイヤモンド業界を描くのかは、まず根本的な問題だった。そのためにアントワープの現地に行って、その世界の現実をじっくりと観察した。自分としては、実際に存在する領域を、きちんとした考証をおこない、ドキュメンタリー的な側面を与えながら描きたいと、はっきり意識していた。それによって同時に、作品が伝統的なフィルム・ノワールへと近づくと考えていた。というのもぼくが好きなフィルム・ノワールには、つねに現実がしっかり根を下ろしている。アントワープのダイヤモンドの世界を初めて訪れたとき、すっかり魅了されたよ。まさにこれまでほとんど映画で描かれたことのない、すばらしい世界だった。

──あのダイヤモンドの作業場は実際に存在している作業場を使ったのですか?

A.H. そう、本物だ。あれはなかなか苦労したよ。ダイヤモンドの作業場というのはものすごくアクセスが制限されていて、本物の作業場を使えない可能性のほうが高かった。でもなんとか撮影させてくれるところが見つかり、しかも内装もいじっていいと言われて、全面的に改装できた。本当にラッキーだった。
 シナリオの話に戻ると、じゃあこの作業場という現実をどうやってシナリオに組み込むか、これも重要な問題だった。いや、そもそもぼくはそれまでジャンル映画のシナリオを書いたことも、そしてここまで複雑なシナリオを書いたことも、なかった。だからかなり直感的なやり方で書いたとも言える。そこで共同脚本家のヴァンサン・ポワミロが必要だったんだ。彼はドラマツルギーのあれこれに強い人間だった。ぼくは現地に行って、なるべくたくさんのひとに会って話を聞き、それを録音して、文字に起こして......、そうやって調査で得た事実を、その後、彼と一緒にどうシナリオに組み込むか話し合った。実は当初、作業場が作品の中心になるとは考えていなかったんだ。もう少し、いかにも「ビジネスの世界」のプロットを考えていた。ただぼくとしてはオフィスを撮ることにあまり興味が持てなかったし、それでダイヤモンドの作業場を実際に見て、これだ、これについて語るべきだとすぐに思った。高度な資本主義的環境のまっただなかに、ああいった純粋に職人的で情熱的な場があることに、ものすごく惹かれたんだ。まるでガレージのなかで錬金術でも使ってなにかをつくりあげているような、そんな印象だった。そこには美という問いや、無垢さという問いに触れるなにかがあったし、これこそを語らないといけない、撮らないといけない、と思った。まさに劇中のピエールと同じさ。予想もしていなかった魅力にとらえられてしまったわけだ。
 実は今回は、なんだかんだぼく自身の状況や境遇が、ピエールのそれとかなりていたと言える。ぼく自身、他所からアントワープにやって来て、最初はダイヤモンドの世界に対してあまりポジティヴじゃないクリシェで頭が一杯で......。それにピエールと同じくぼくもユダヤ人だけど、ユダヤ人コミュニティとの関係は微妙なんだ。いままでまったくユダヤ人コミュニティとの繋がりはないし、ちょっと警戒もしている。宗教それ自体にの知識もそれほどないし、あまり知りたいとも思っていない。ピエールも同じだ。彼は自分をユダヤ人だと考えておらず、自分をひとりの貧乏人だと考えている。そして金持ちの敵の家族へと乗り込んでゆく。ここにも共通点がある。つまり、ぼくの出自はいわゆる「作家の映画」だけど、『汚れたダイヤモンド』では「商業的な映画」のほうへ、あるいはジャンル映画のほうへ乗り込んでいったんだ。でも最初はこの類似に気づいなかった。徐々に明らかになってきたんだ。まったく、おかしなものだよ。
 だからピエールがアントワープにやって来て、ダイヤモンドの世界に出会うプロセスをシナリオで書くのは、ぼくにとってはかなりシンプルだった。なぜなら自分も同じプロセスを実際に経験したわけだからね。あの巨人の銅像だってそうだ。ピエールがあれを発見したのと同じ感じで、ぼくもあの銅像を発見した。とにかくピエールの動きを描くための一貫性みたいなものが自分のなかにあった。もちろん彼の心情の動きはまた別だよ。そこはより複雑なものだった。

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──「ジャンル映画」を出発点としつつ、同時にこの作品は最初から神話的な壮大さをまとっている。物語が進むにつれていくつもの問題系が現れてきて、いったいそれらがどうやってラストで収斂していくのか、どきどきしながら見ていました。このシナリオには滑らかさだけでなく、良い意味で、どこかゴツゴツしたところがあると感じたんですね。

A.H. 実際シナリオはかなり苦労したよ。ただし軸がはっきりしていたから......、いや、これは時間が経ったいまだから言えることだね。書いているときははっきり意識していなかったんだ。でも出発点はとにかくシンプルだった。簡単に言えばハムレットさ。つまり復讐を求める若い男だ。ものすごくシンプルですばらしいモチーフだし、この出発点から問題となるのは、彼が復讐を果たせるか否か、ということになる。そして強盗もののモチーフもそれとほとんど同じなんだ。なにかを盗もうという計画がある、じゃあ問題となるのはそれが成功するか否かだ。この軸のおかげで観客は、いま何が起きていて、自分がどこにいるかを、つねに把握することができる。この直線的な軸に沿って、問題や問いをどんどん増やしていった。

──驚くことにピエールにとっての「父親」が5人もいる。本物の父親、ラシッド、伯父のジョー、研磨師のリック、そしてインド人のダイヤモンド商のゴパール。これはもう、物語が複雑にならざるをえない。

A.H. そうなんだよ。「父親」が5人だからね、自分でも驚いてしまう(笑)。シナリオ作業が進めば進むほど、自分はかなりバロック的な物語を語ろうとしているんだと、気づいたんだ。それで必然的に「父親」が増えていったと言える。いくつもの問題提起や登場人物、形象、賭け金をどんどん積み重ねていって、かなり時間をかけて多くのヴァージョンを書いた。いま、そのプロセスを具体的に思い出して語るのは難しいけど......、共同脚本家のヴァンサン・ポワミロと一緒に8ヶ月間、いやそれ以上かな、彼の家で大きな図表を用意して、ポストイットを貼りながら、かなり古典的で体系だったやり方で作業をした。彼はこう言った。「ぼくたちが語ろうとしている物語は三幕構成ものだ」。わお、OK、その通りだ。「それぞれの幕には前後半の柱があって、それぞれの柱の終わりには特別なポイントが必要で......」。そうやってヴァンサンがシナリオに体系を導入してくれた。たしかに、少しばかり教科書的なところがあったかもしれないけど、ぼくなりにポジティヴな言い方をすれば、これは「古典的な」やり方だったんだ。それは自分が習得していないものだったし、すごく良かったと思う。ある体系のなかを進んでいくと、いつしか物事がぐっと有機的になるときが訪れる。ある規範のなかで法則にのっとって枠組みをつくっておけば、あとはそのなかで突飛なことも生み出せてしまう。ぼくにとって古典的なるものの可能性はそこにある。まずは古典的な方法論に入り込み、その内部で想像しうる限りの突飛さを実現し、内容的にも形式的にも過激になるようにすること。そこにものすごく興味があるんだ。古典的なものや、ある種の型を受け入れることは、慎重になることやおしとやかになることとは関係がない。それは、堅固な家を建てることだ。そしてその家に驚くような大胆さで手を加えるんだ。

──さっきハムレットの名前が出ましたが、あの戯曲のなかには、非常に重要な人物としてハムレットの母親、ゲアトルードがいる。でもあなたは『汚れたダイヤモンド』でゲアトルード、つまりピエールの母親をまったく登場させていませんね。

A.H. 実はピエールの母親はシナリオに存在していて、最初はシーンもいくつかあったんだよ。ピエールの父親が死んで、じゃあ彼はこの神話をいったい誰から受け継いだのかと考えたとき、やはり母親の存在が必要だった。シナリオ執筆の最終段階で、もうひとり女性の共同脚本家アニエス・フォーヴルが加わってくれて、彼女とはおもに女性の登場人物、つまりピエールの母親とルイザのパートを一緒に作業した。最終的に母親はぼくのお気に入りの人物になった。ただ準備段階の最後で、やはりどうしてもシナリオが長すぎるとなって、どこか切らないといけなくなった。それで、物語を進めるうえで重要性が低い登場人物が母親だとなり、結局ワンシークエンスだけに減らさざるをえなかった。それは、父親の埋葬のシーンの直前。ピエールが母親と一緒に地下鉄に乗っていて、それから駅のホームでふたりのあいだに会話がある。ふたりで父親のことを思い出し、彼女の感情がものすごく昂る。かつて父親を襲った悲劇に彼女の感情はまだ支配されたままだ。彼女は息子に憎しみを受け継がせようとしている。ただ一方でピエールは、この母親から解放されたいとも考えていて、だからもうひとりの父親ラシッドを求め、そこに別の家族を見い出すわけだが......。とにかく、ピエールと母親はそのまま父親の埋葬をする墓場を訪れる。だが彼女は、ジョーたち一家が遠くに見えた瞬間、もう我慢できなくなり、その場を立ち去ってしまう。これが母親の唯一のシークエンスで、実際に撮影もした。でも、どうも編集段階でこの一連のシーンが弱く感じられてしまった。いや、女優のせいじゃない。結局のところ根本的にうまくシナリオで書けていなかったんだよ。主人公の人生においてこれほど重要な人物を、たったひとつのシークエンスでおさめようとしたこと自体に無理があったんだろうね。残念ながらその一連はすべてカットした。難しいよね。結局その一連なしでうまくいったと思っているし、となるとやっぱり、そもそも母親という登場人物はいらなかったとも言えるし、いや本当は必要だったのかなとも思えるし......。でも実は、ぼくにはもっと根本的な問題がある、それは......、ぼくは女性の登場人物を書くのが苦手なんだ(笑)。女性の登場人物がいないほうが、うまくシナリオを書けてしまう。ただ、いままさに変わりつつあるとも自覚している。いまちょうど新しいシナリオを書いていて──小野田寛郎さんの企画とはさらに別のものだ──、そこでは女性の登場人物たちの重要度がかなり高い。女性の登場人物というものに、いまはすごく興味がある。

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──母親がいないせいでしょうか、代わりにルイザが、ときにピエールの母親に見えたりもする。ピエールがルイザを襲うシーンがありますが、どこか近親相姦みたいな恐ろしさがあるんです。

A.H. ああ、わかる。近親相姦に近い雰囲気はぼくもあのシーンに感じる。ただし母と息子に見えるというのはどうだろう......、そうだね、たしかに間違いではないかも。というのも、物語の最初からピエールは想像的な世界に囚われている。しかもかなり限定された想像的世界だ。『汚れたダイヤモンド』という作品全体が、そんな彼の想像的世界を開こうとし、それを彼に再検討させるようになっている。その想像的世界のなかでは、ある年齢以上の男性全員が彼にとっては父親であり、登場する女性全員が母であると同時に欲望の対象でもある。まあ、あからさまにオイディプス的なんだけど......。ルイザというのはピエールにとって、ダイヤモンドと同様、復讐の対象である一家から「奪うべきもの」だ。それによって従兄弟のギャビーとライバル関係になり、そして彼に傷を負わせることができる。ただ奇妙なことにぼくはルイザをかなり男性的な人物として考えていたんだ。ルイザを演じるラファエル・ゴダンの持つ特徴ゆえだ。彼女はとても美しくて官能的だ。でもそれはいかにもなセクシーさや、女性らしさのクリシェとは関係がない。別の女性性があるんだ。闘うひと、戦士のような人物で、ピエールと似通った側面がある。近親相姦っぽいところは、だから、そこから来ているとも言える。あのシーンにおいて彼らのあいだにあるのは、いかにもな誘惑ではなく、一種の友愛を含んだなにかなんだと、すぐに気づくだろう。あの一家におけるふたりの立ち位置は似ていて、一方は血の繋がっていない嫁、一方は余計な親戚、どちらも外側からやって来た人間で、しかもどちらも貧しい世界から金持ちの世界へとやって来た人間だ。彼らはそのなかで成り上がるわけだが、失うものも得るものも大きい。その意味でも、かつ身体的にも、彼らふたりは合わせ鏡のような関係にある。

──男性的かつ異様な官能性を持つと言えば、やっぱりローレン・バコール。ラファエル・ゴダンって、似てますよね......。

A.H. ローレン・バコールにね! しかも、ちょうど『汚れたダイヤモンド』の撮影中にバコールが亡くなったんだ。小さいころぼくが最初に夢中になった映画はハンフリー・ボガートの出演作だった。ホークスの『脱出』(44)や『三つ数えろ』(46)......。もちろんそこにはバコールもいて、彼女もまた小さいときのぼくをとてつもなく魅了した、映画の人物だった。バコールが亡くなったとき、新聞にとても美しい彼女の写真が載っていて、ぼくはその切り抜きを持っていたんだけど、あの鋭い目つきとか、もうあまりにラファエルと似ていてね。すごく驚いたさ。

──ピエールとルイザの車のシーン。いかにも50年代のフィルム・ノワールを思い出させるようなシーンですが、あの背景はまさかスクリーンプロセスだったり......?

A.H. いや、あれは現実の背景だよ。実際の道を走っていたんだ。でもそうやって聞いてくれた理由もすごくよくわかる。たしかに、あのシーンにはかなり現実離れした雰囲気がある。まずはカメラのブレがほぼない。かなり気を使ってカメラを固定したのはもちろん、道路もほとんどでこぼこがなかった。それからライティングもかなりつくりこんだし、あとはカラコレでもかなり手を加えて、そうやってあの現実離れした雰囲気を強調していった。だからこの指摘はうれしいよ。(vol.2へつづく)

vol.2

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アルチュール・アラリ Arthur HARARI
1981年7月9日パリ生まれ。祖父は俳優・演出家のクレマン・アラリ。兄は撮影監督のトム・アラリ。パリ第八大学で映画を専攻。2007年、中編作品に特化し、若手監督の発掘の場ともなっているブリーヴ映画祭で『La Main sur la gueule』がグランプリを受賞。2013年、短編『Peine perdue』が、ベルフォール "アントルヴュ" 映画祭の短編部門にてグランプリを受賞。2016年、長編第1作となる本作『汚れたダイヤモンド』を発表。フランス批評家協会賞・新人監督賞のほか、いくつもの賞をとる。現在、元日本兵、小野田寛郎に関する長編を準備中。また俳優として、私生活のパートナーであるジュスティーヌ・トリエ監督『ソルフェリーノの戦いLa Bataille de Solférino』(2013)、『Victoria』(2016)などに出演している。

   

『汚れたダイヤモンド』Diamant noir
2016年/フランス・ベルギー合作/フランス語・ドイツ語・英語/カラー/115分/1.85/5.1ch/DCP
監督:アルチュール・アラリ
脚本:アルチュール・アラリ ヴァンサン・ポワミロ アニエス・フォーヴル
撮影:トム・アラリ
音楽:オリヴィエ・マルグリ
出演:ニールス・シュネデール アウグスト・ディール ハンス・ペーター・クロース アブデル・アフェド・ベノトマン ラファエル・ゴダン ラグナト・マネ ジョス・フェルビスト ギヨーム・ヴェルディエ ヒルデ・ファン・ミーゲン
公式サイト:https://www.diamantnoir-jp.com
2017年9月16日(土)より、ユーロスペースにてロードショー(全国順次)