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September 14, 2017

『汚れたダイヤモンド』アルチュール・アラリ監督インタヴュー vol.2
松井宏

[ interview ]

vol.1

明解さの探求 アルチュール・アラリ監督インタヴュー

──作品全体を通して、ライティングがものすごく作り込まれている。夜のシーンはどれも本当に美しい。撮影監督のトム・アラリはあなたのお兄さんですが、ライティングについて、あるいは作品全体のルックについて、彼とはどんな話し合いをしたのでしょう?

A.H. トムとはものすごく時間をかけて話し合ったし、準備にもかなり時間をかけた。トムとはずっと一緒にやってきたし、今回は初長編でお互い気合いが入っていた。それにぼくらはふたりとも、小さい頃に最初に夢中になったのがフィルム・ノワールだったしね。フィルム・ノワールへの情熱をぶちまけて、それをかたちにするチャンスだったし、自分たちが望むヴィジュアルをつくろうといろいろ試みた。参考になりそうな映画をたくさん一緒に見たよ。まず最初に重要だったのは、デジタルでの撮影をすると決めたこと。それ以前の短編はすべてフィルム撮影だったから、実は今回もフィルムでいきたかったんだけど、やっぱりお金もかかる。となるとどうしても撮影期間を減らさないといけない。だからフィルムは諦めたんだ。そして、今回はデジタルでいくと受け入れた瞬間、それをチャンスだととらえたんだ。そもそもデジタル撮影で美しい質感を求めようとすると、複雑にならざるをえない。フィルムだとそこがよりシンプルだ。なぜならそこには、なんの疑問もなくひとを納得させる質感の美しさが、すでにあるからだ。フィルム撮影は、そこにあるものに美しさを与えるんだ。デジタル撮影の場合、そういった美しさを得るためには、より思考と作業が必要になる。だからぼくたちは、この作品のヴィジュアルについてかなり考え、デジタルに備わる人工的な側面、いわば「デジタル感」みたいなものを受け入れて、少しばかり過激なところまでいくことにした。そこにはぼくたちふたりの好みにハマるものがあった。

 トムとは本当に、まさに「一緒に」映画をつくっているんだ。たしかにぼくが演出家で彼が撮影監督という役割の違いはあるけど、演出にしても彼との共同作業であることは間違いない。照明については、ふたりの一致する好みがあった。たとえば、指向性のあるライティングで、ハイライトを強調するやり方。これはぼくたちの好きな古典映画から受け継いだもので、最近はどんどん少なくなっているやり方だよね。それと最近ほとんど見なくなったものといえば、もうひとつ。室内のシーンの多くの美術で、反映のある素材を使っているということ。そのせいで、あたかも過去のなかにいるような感覚がもたらされる。なぜならいま2017年に室内でカメラを回す場合、そのほとんどは反映のないマットな表面の素材なんだ。ぼくにとっては、それだと空間に面白みがない。空間が閉じられて固定されてしまうというか......。

──たとえば窓を多用する、とか?

A.H. もちろん窓というものには本来的に反映が備わっている。これはぼくの印象なんだけど、いまの多くの撮影監督たちは反映というものを拒絶し、また多くの演出家たちは反映というものを警戒する傾向があるんじゃないかな。窓だろうが鏡だろうが、ね。壁や天井や床に関してもそうだ。ペンキもマット系ばかりで光沢系はほとんど使われなくなっている。ぼくらは意識的に反映を増やすようにした。いろんな映画を見直してみたんだが、1980年代ぐらいまでは、室内美術は光沢系で反映のあるものがほとんどだったことに気づいた。家具や装飾品の素材自体さえ、そうだったんだ。単純に言えば、それによって映像のなかに空間が、パースペクティヴが、生み出される。だから今回、美術の女性と話し合って、あの一族の豪華な屋敷も──本当に美しい家だったんだけど──内装をかなりいじって、反映のある素材を持ち込んだんだ。これは作品のルックにかなり影響した。それから色について。とにかく色が強烈であってほしかった。赤や青や......。

──そう、ピエールのポロシャツがまさに鮮烈な赤。最初にそれを見るのはパリの街なかですが、まさしく「目に飛び込んでくる」赤だった。そして下はこれまた鮮烈な青のつなぎで。

A.H. その通り。それからギャビーの服。彼はほぼつねに青を着ている。色についてどうするかというのも、おもしろかったね。フィルム・ノワールや、それにフランスの犯罪映画によくある灰色の暗い感じの色使いとはちょっと逆の方向性にしようと、決めたんだ。とにかく鮮烈な色使いにしよう、と。これは50〜60年代のアメリカのメロドラマからの影響だよね。ヴィンセント・ミネリ、ダグラス・サーク、エリア・カザン......、トムもぼくもそのあたりのメロドラマがものすごく好きなんだ。もちろんシネフィル的な理由だけじゃなくて、語りの形式においても、この選択は重要だった。どのように語るか、ということについて、さまざまな要素においてここまで考え抜いて、大胆なところまでたどりついたのは、まさに今回が初めてだったよ。

──他にスタイル面で重要な選択はありましたか? たとえばレンズのサイズとか......。

A.H. そうなんだよ、今回は多くのシーンで、焦点距離が短いレンズ、つまり広角レンズを使ったんだ。この決定もスタイル面ですごく重要だった。これもまた、いまのフランス映画ではなかなか見られなくなったものだね。自分がとくに好きな監督たちは、その多くが大なり小なりの広角レンズを使っていて、それによって空間を取り込み、そして映像に変形、歪みをつくりだしている。もちろんぼくの好きな監督たちで広角レンズを使わない人々もいるよ。ただぼくには現在のフランス映画に問題があると思っていて、つまり、ほとんどそこに空間がないということ。顔やからだの動きを撮っていても、背景はぼやけていて......。空間を取り込むということは、空間におけるからだについて考えることであり、空間とからだとの関係を考えることだ。ある意味で今回はそのことだけが問題になっているとも言える。つまりピエールはある場所を発見し、そこを彼なりの特殊なやり方でじっくり観察するのだが、つねに居心地の悪さのようなものがある。なぜなら彼にはつねに隠し事がある。だからこそ物事から少しばかり距離を取るわけで、彼にとっては空間がつねに問題となる。
『汚れたダイヤモンド』の製作費はまあまああったとは言え、「まあまあ」でしかなくて、もちろんセットも組めず、すべてはロケセットだ。ただし、もちろん、全部が全部望んだロケセットを使えたわけじゃない。たとえばダイヤモンドの作業場。本当はもっと大きな作業場がよかったんだけど、結局はかなり狭いところになってしまった。作業場までつづく廊下もそうだ。もともとはもっと大きな廊下で撮影したかったんだけど、許可が下りなくて、結局あるホテルの廊下で撮影した。結果はもちろん良かったとはいえ、あの廊下はやっぱりちょっと特徴がなさすぎるし小さすぎるかな......。ぼくたちが参考にした映画たちは、もちろん製作費も多くて、基本的には必要な空間のためにセットを建てて、という映画たちだ。正直そういったものに対する憧れや幻想がぼくらのなかにはある。でももちろん実際はそうはいかない。現実と相対することになる。そのとき、ではどうやって自分たちの望むような空間の広さを得ればよいかと考えたわけだ。

──ではあの狭い作業場での撮影では、カメラをどこに置くべきか、悩みどころだった?

A.H. シーンによるかな。たとえばピエールが最初に作業場のなかを訪れる一連のシーンなんかは、シンプルだった。ピエールは作業場のすべてを把握する必要があったわけで──これは彼の才能でもある──、それはカメラも同じだった。通路がをトラヴェリングして、まるで洞窟のなかを進むように、徐々に作業場の全体を把握していく。それからラスト近くの、伯父のジョーとピエールとの会話の、ショット/切り返しショットのシーン。あれも適切な立ち位置と適切な照明がすぐに見つかったから、問題なかった。逆にちょっと不安だったのは、そのあとのアクションシーンだ。実はあそこのシーンにはもともと別のイメージがあったんだ。ぼくの頭のなかにはサミュエル・フラーの『拾った女』(53)の、あるシーンがあった。悪役の男がキャンディという女からなにか情報を引き出そうとして、暴力をふるうシーンだ。アパートのなかで、男は女を引っ叩き、壁に押し付ける。するとカメラがいきなり引いていって、ロングサイズになる。その引いた画のなかで、ふたりはもみくちゃになり、最終的には彼女が撃たれる。たしかピストルのインサートが入る以外は、すべてワンカットだ。フラーはアクションシーン、つまり身体的なシーンを撮らせたら最高の監督のひとりだ。男がキャンディにふるう暴力と同じ暴力性をフラーのカメラは生み出す。と同時に、そこには空間がある。

『汚れたダイヤモンド』のアクションシーンも、まさに同じような感じでシナリオに書いた。でもあれを実現するには十分な空間がなかった。引きじりがなくて、2メートル四方ほどで事を起こさないといけなくて......。とはいえ最終的には、かなりいいものになった。なぜなら俳優たちの強度が本当にすごかったからね。それで十分だったんだ。たしかに、準備段階でもっと時間があって、もっと広いアトリエを見つけられて、しかも精密にカット割りをしていたら......、という考え方もあるかもしれない。でも結局は生身のからだ、つまり俳優たちによって、そのシーンが成功するかどうかが決まる。俳優たちのからだをどう動かし、どう演出をつけるかが、やっぱりすごく重要なんだ。

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──作品内で何度か現れるショット/切り返しショットのシーンは、どれもとても美しいと思いました。たとえば公園のベンチでのピエールとギャビーのシーン、ピエールとラシッドとの鳩のくだりのシーン、あるいはいま話にあったピエールとジョーの作業場でのシーンなどなど......。ショット/切り返しショットをどこで使うのか、その決定はいったいどのように為されたのか?

A.H. ものすごくシンプルだよ。一目瞭然で「ここはショット/切り返しショットだ」というときに使う。そもそもショット/切り返しショットは映画におけるもっともシンプルな事柄だと思う。ふたりの登場人物がいて、そのあいだになにか濃密なやり取りがあり、それを、一方にも寄り添いながら同じく他方にも寄り添いつつ、撮る。すぐれて古典的で、コード化された形式だ。ショット/切り返しショットに対しての警戒は、ぼくにはまったくない。うまくやれれば、映画においてもっとも美しい事柄になるとさえ思っている。トムと一緒にカット割りを考えていたとき、「ここはショット/切り返しショットしかない」というのはすぐに決まったよ。「ショット/切り返しショットをやらずにどう撮ろうか」と数時間も考えるなんてことは、まったくなかった。さっき話したラスト近くの、作業場でのピエールとジョーとのシーンではなんの疑問もためらいもなかった。ピエールとラシッドとの鳩をめぐるシーンについてはちょっと事情が異なる。あのシーンは、最初はショット/切り返しショットで始まるけど、途中でラシッドが鳩を取りにその場を離れ、そしてまた戻ってきて......、最終的にはふたりのあいだに鳩があって、だから当然ふたたびショット/切り返しショットに入る。逆にさっきも話に出たピエールとルイザの車のシーン。あそこはショット/切り返しショットはやらない、というのが明確だった。

──それはなぜ?

A.H. 運転席と助手席にひとが乗っている車のシーンで、一般的に自分が好きじゃない撮り方があるんだ。カメラを後部座席に置くやり方だ。人物のうなじが映るんだけど、人物に近すぎて、他になにも見えなくて......。このやり方はかなり多いと思うけど、個人的にはすごく嫌なんだ。自分としては、どんな道を走っているかわかるような風景もちゃんと見たい。
 ピエールとルイザのあのシーンでは、最初のうち、ふたりの関係はすごくロマンチックだ。だが徐々にピエールの欲望が増してきて、彼女に近づこうとする。すると事が複雑になり、もはやふたりは一緒にいられなくなる。この筋道通りにシーンを構成すればいい。最初はほぼワンカットでふたりを正面から同じフレームにおさめる。もちろんそのあいだに手元のインサートもいくつかあるけど......、だんだんと手元のカットが、そのままピエールの欲望と同期しながら、ふたりのあいだを複雑にする。そして車が停まる。するとルイザの顔のカット、つづいてピエールの顔のカットが──どちらもものすごく居心地の悪い顔だ──入る。そしてふたたび、ふたりの正面のカットへ。だがそのときもう、ふたりの関係は完全に変わってしまっている。

 ふたりの登場人物のシーンには、彼らのあいだになにかしらの論理がかならずあって、それにしたがってカット割りを考える。ここでもまた重要なのは一種の古典主義なのかもしれない。とにかく、あるスタイルや形式を選んだり、つくりあげたりすることは絶対に必要だ。けれど同時にそこで、論理や明解さやシンプルさを拒否しないことも重要だ。

──そういったカット割りのシンプルさのおかげで、仮に物語が複雑になってきても、作品自体はつねに「良い姿勢でいる」というか、「まっすぐ立っている」ような、そんな印象を受けるんです。たとえば夜の屋敷での、ギャビーとジョーがケンカをしていて、それをピエールが覗き見しているシーン。人物の動きにしても、感情の動きにしても、少しばかり難しいシーンだと思うのですが、いま言ったような明解さやシンプルさによって、とても力強くて、説得力のあるシーンになっている。

A.H. あのシーンは『汚れたダイヤモンド』のなかでもいちばんお気に入りのシーンのひとつだ。俳優たちの演技、音楽、それから演出と、それらがうまく組み合わさってあそこのエモーションを生み出している。そして、そこに明解さやシンプルさを感じ取ってくれたのは、すごくうれしい。そもそも思うに......、映画における演出の究極の目標は、明解さやシンプルさに到達することじゃないだろうか。ぼくの場合はまだ、物事をバロック的にしたり、複雑にしたりしがちだと思うけど......、仕方ない、若さゆえかな(笑)。明解さと複雑さとのあいだの、ちょっとばかり風変わりなバランスを見出そうと試みることが重要なんだ。つまりめまいを催すような錯乱や、ねじれ、奇妙さ、といったもの。そもそも古典的なものとは明解さそのものだとも言い換えられる。あるいは明解さの探求、と言ってもいい。ある複雑さや両義性を描くためにはそれが必要だ。そして重要なのは、明解さと複雑さとのあいだの特異なバランスだ。

──まさにホークスの『三つ数えろ』みたいな......。

A.H. あらすじが全然理解できないのに、いまなにが問題になっているかだけはつねにわかる、というね! 『三つ数えろ』では、感情に関わる事柄とスタイルとがみごとに合致していて、だからそれだけで十分すばらしいんだと思う。

──ちなみにあの夜の屋敷のシーンで、最後はカメラが窓ガラス越しに外のふたりをとらえています。すると、ギャビー持っているホースの水がそのガラスに向かっていきなり放たれる。あれは偶然ですか? それとも演出?

A.H. あれは演出だよ。ギャビーを演じたアウグストと一緒に、どうやったらあのタイミングでホースの水を窓ガラスに当てられるかを、いろいろ試したんだ。すべてプラン通りいったよ。

──あれには驚きました。「うわ、カメラに向かって水を放った!」と。実際はガラスに当たっているわけですが。

A.H. そう、まさにカメラに向かって水が放たれることが重要だったんだ。そもそもあのシーン全体にはカメラによる流動性、シンプルさ、それから透明さみたいなものがある。ところが観客はあの瞬間に突然「あ、カメラがあるんだ」と、ハッと気づかされる。しかもケンカを覗いているピエールの横にカメラがあることも、次のカットですぐに気づく。まさに不意打ちだ。

──もうひとつ驚いたので言うと、ピエールとギャビーがインドに行ってゴパールの屋敷を訪れますよね。そこでふたりが庭に出て会話するシーンがあるんですが、急に引きの画で撮られる。たぶんこの作品で唯一ですよね、あそこまでのロングショットは。しかもふたりがものすごく真剣に重要な会話をしているのに、画面の奥のほうでは、おそらく地元の人々が海岸で組体操かなにか?をしながら、楽しそうに遊んでいる。あのひとたちはどうもエキストラには見えないのですが、実際はどうったのでしょう?

A.H. 正確に言うと彼らはエキストラじゃないんだ。あそこはボンベイの有名な海水浴場で、昼になるとひとがごった返すから、ぼくらは朝いちで撮影していた。覚えているかな、あのロングショットには、奥のほうに近代的なビルに並んで、古代の円形闘技場みたいな建築物があって、それからヤシの木もあって......、ずいぶん変わった感じの場所だった。それで、あの砂浜にいるひとたちは、実はあるバリウッド映画のエキストラたちで、スタントの練習をしているんだよ。あそこで撮影の準備をしているときに彼らを見つけて、ぼくはすぐに「これはいいぞ」と思って、そのまま彼らも込みでカメラを回すようにしたんだ。その次のカットでは犬が海岸を走っている。あれも実際にそこで遊んでいたところを、そのままカメラを回した。とにかく、あのロングショットはぼくも大好きだ。

 そもそも『汚れたダイヤモンド』では語りを機能させるために撮らないといけないものがすごく多くて......、屋外の現実や偶然的な出来事をどうしても逃しがちだった。たとえば屋外で、道にピエールがいるシーンもあるけど、すごく短い。またダイヤモンドの作業場にはたしかに「ドキュメンタリー的な」側面があるけど、あくまでもそれは事実や資料に基づくという意味においてだ。だからぼくには、この作品が全体的に人工的なものになってしまわないか、フィクションのためだけのフィクションになってしまわないか、という心配がものすごくあった。もちろんそれは自分自身が好んで選んだことだけど、でもやっぱり、自分たちがコントロールできない物事をカメラにとらえたい、いま目の前に起きている出来事をフレームにおさめたい、という強い欲望がつねにある。そこにこそ映画におけるポエジーがあるんだ。だからあのボンベイの砂浜で撮影するとなったとき、まったく別の出来事を入れ込んだフレームをつくろうと考えたんだ。あそこでピエールとギャビーは、作業場の問題やらお金の問題やら復讐の問題やら、互いにさまざまなことを生きている真っ最中だ。でもこの世界には、そんな彼らが生きる物語とは別の物語が山ほどあって、それらはいままさに目の前で起きている。そしてそのことによって、ふたりがいままさに生きている物事が、より強く前に出てくるはずなんだ。だからあの砂浜のロングショットは、ぼくにとってすごく大事だった。

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──まさに目の前の現実に開かれているからでしょう、あのシーンはとても穏やかで、そこには物語の時間とは別の時間が流れている。良いシーンですよね。

A.H. うん、あのシーンに至るまでは作品全体がものすごく息の詰まる感じというか、どの登場人物たちのあいだにも緊迫した葛藤や争いがある。その意味でいうと、たとえばインドのダイヤモンド工場の作業場での、横移動のトラヴェリングも、同じように息継ぎができるというか、ふっと空気が入り込む瞬間じゃないかな。もちろんあそこには主要な物語との繋がりがちゃんとある。でもそれを忘れるぐらいに......、まるで、ふっと窓を開けて空気が入り込むように、世界というものが入り込んでくる感じだ。

──『汚れたダイヤモンド』の世界は基本的に、ダイヤモンドを研磨するための円盤が代表するように、円の形象というか、円の運動によって成立しています。複数の「父親」のあいだをぐるぐる回るピエールの動きもそう。インドでのシーンというのは、ピエールとギャビーの「不可能な友愛」のシーンであり、その円の運動から抜け出た時間帯だとも言える。そして他方で、この作品では直線の運動というものも、とても重要だと思います。わかりやすいのが、パリからアントワープに入るとき、あるいはアントワープを出るときの、列車からのカット。列車による前方への、あるいは後方へのトラヴェリングとも言えるカットですね。円と直線、このふたつによって『汚れたダイヤモンド』は構成されている。

A.H. まさにそうなんだ。円と直線というのは、この作品においてすごくシンプルで重要で、そして互いに拮抗しているふたつの幾何学的な形象だ。そもそも最初のシークエンス、つまり、そこから神話が発生したあの過去のシークエンスに、このふたつの運動はすでに存在している。前方へ直進するカメラの運動があり、ふたりの兄弟と、ダイヤモンドを研磨する円盤が見える。そして事故が起きる。円盤は回りつづけている。やがてカメラは同じく直線的に後退していく。そしてまた回りつづける円盤。そこにクレジットがかぶさりながら、やがて円盤はそのまま目になる。そうやって直線の運動と回転の運動とが作品をスタートさせる。これについては完全に意識していた。とくにトムと一緒にいちばん強く意識していたのは、前へ進む運動であり、たとえば前方へのトラヴェリングだ。これは運命というものの形象でもある。例に挙げてくれた列車の線路のカットもそうだ。
 他方で円の形象は、編集の段階で、より目に見えるかたちで重要になった。円盤と目との一致に関しても、もともと考えていたわけじゃなくて、あそこにクレジットを乗せるのも編集のときに思いついた。ちょうど作品の中盤あたりで、今度は目から円盤へのオーヴァーラップがあるけど、あれも編集段階で考え出したものだ。円盤自体は何度か画面内に登場するけど、あれを真上から、円としてとらえているのは、冒頭とこの箇所だけだ。そこには語りの戦略がある。つまりふたたび現れるその円、それは父親というオブセッションであり、「まだ復讐はそこにある」ということをあきらかにする。『汚れたダイヤモンド』のプロット全体にはちょっとした複雑さがある。ピエールが研磨師として働き出し、それが彼にとっては喜びで、しかも彼には才能があることがわかってくると、観客はこう感じ始めるはずだ。「ああ、なにも問題ないじゃないか。復讐なんてもう忘れてるんだろう」とか「なるほどね、彼にはこういう才能があるのか。これで自分の居場所も見つけたわけだ。じゃあ憎しみはどこにいったんだ?」とかね。だから「復讐はまだそこにある。見てごらん、それは彼の目のなかにあるんだ」と言うために、あのオーヴァーラップを使ったわけだ。

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──この作品には最終的に謎が残ります。ピエールの父親のことです。ピエールが父親から聞かされていたことが正しかったのか、あるいは伯父のジョーが語ることが正しかったのか。最終的には曖昧ですよね。

A.H. ピエールの出発点にはハムレットがいて、それは「間違いを犯す人間」のことでもある。ピエール自身、本当にはなにが起きたのかがわからなくなる瞬間があるし、観客にとってもそうだろう。「復讐をする」ということ自体が間違いなんだ。事実のある一面や推測、あるいは主観でしか彼の世界はできておらず、それがそのまま神話になっていく。なにが真実だったのかというこの根本的な両義性は、作品の主題そのものだとも言える。実際、共同脚本家のヴァンサンともちょっとした意見の違いがあってね。彼にとって答えは明らかだ。伯父のジョーが語ることが真実だと。ところがぼくはというと、彼ほど強くは言えなくて......。こんなことを監督のぼくが言うのも変かもしれないね、はっきりした答えを持ってないといけないのに......。基本的には彼の意見に賛成だ。ジョーが語るヴァージョンがおそらく「事実としては」より信憑性が高い。それでもやはり、そこには多くの両義性が残されている。まだ子供だったピエールの父親を、その両親が無理矢理働かせていたのではないか? 彼が極度に疲れていたのは、無理矢理働かされていたからなのか? あるいは彼は望んでそこまで働いていたのか? それに一族があるときに彼を追放したことは、やはり事実としてあるはずだ。一族は彼の苦しみを受け入れず、手を差し伸べもしなかった。そこにはけっして消えないさまざまな両義性がある。だから「感情のレベルでは」どちらのヴァージョンも真実なんだ。彼らにとっては、事実だけでは不十分だ。事実と同じ強度で感情が存在しているのだから。ふたつの主観はどちらも正しい。感情の葛藤や苦しみからは決して抜け出せない。事実は絶えず主観にてこ入れしつづけ、だからこそ悲劇が生まれる。戦争というものがつねにそうだ。ジャン・ルノワールの言葉通りだ。「この世界には恐ろしいことがひとつある。それはすべてのひとの言い分が正しいことだ」。

──話を聞いていると、あなたにはジャンルへの信はもちろんのこと、それよりも、フィクションそれ自体への信というものが、強くあるように感じます。

A.H. そう言ってもらえてすごくうれしいよ。でも同時にぼくにとっては、ジャンルこそフィクションそのものなんだ。それはフィクションというものをもっとも引き受けている表現法だ。ホメーロスの諸作品や『ギルガメシュ叙事詩』でも、なんでもいいけど......、そこにはすでにコード化された物語、ジャンルとしての物語があった。神話というものは諸ジャンルの出発点であり、それらは歴史のなかで徐々に発展していった。ジャンルという考え方を壊したり薄めたりすることは、近代における発明であって、ごく最近のことだ。歴史の大部分において、物語のみならず絵画や音楽などの芸術一般は、すべて非常にコード化されていて、ジャンルにおいて決定づけられてきたと言える。人々はつねにコードを求め、つねにそれを更新してきた。だから語りの芸術において、ぼくはフィクションとジャンルを区別しない。もちろんすべてがすべてそうだというわけじゃない。ジャンルの外側でフィクションをつくることもできる。おそらくそれは「現代の作家映画」と呼ばれるもののなかで、多くおこなわれてきたことだ。すでに言ったように、今回ぼくは「強盗もの」というジャンルの作品を撮らないかというオファーを受けた。そのとき最初に考えたのが、「物語を語ることができる」ということだった。ジャンルは、物語を語り得るためのすぐれた乗り物だ。

──なるほど。ジャンルやフィクションの話との関連でいうと、『汚れたダイヤモンド』を見たときにすっと確信したことがあったんです。「この監督はクリシェを恐れていない」と。クリシェとどのように付き合うか、という問いを意識することはありますか?

A.H. それについてはものすごく考えてきた。映画を1本つくるたびに、なにか物語を語ろうとするたびに、その問題に直面するし、ぼくはすぐにクリシェに向かいがちなんだ。でもそれは良い兆候だと思っているよ。なぜならクリシェというのは......、またしてもルノワールを持ち出すけれど、ぼくらは完全にオリジナルではいられないし、あらゆる物語はすでに語られている。そしてそれを恐れる必要なんてなにもない。なにか語るべきことがあるのだと証明するためのもっとも良い方法は、すでに語られている物語を手に取り、それに面と向き合い、じゃあどうやったら今度は自分たちがそれを語れるかと自問することだ......、そうルノワールは言っている。だから彼は小説の映画化に価値を見出していたし、リメイクだってそうだ。もちろんそれは、彼がクリシェをもっとも価値のあるものだと考えていた、ということじゃない。要は、クリシェを経由する必要がある、ということなんだ。ぼく自身それはものすごく実感するし、完全に納得できる。リメイクというものにもすごく興味がある。

『汚れたダイヤモンド』では、たとえばピエールの夢のシーン、つまり窓から手が現れるあのシーンは、実は完全にある小説から盗んだものなんだ。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』だ。シナリオを書いているときにちょうど読み直していて、そこにはこんな場面があった。ある登場人物が眠りにつこうとしている。ふと目を覚ますと、窓に枝が打ち付けているのが見える。彼はそれがなんだかわからず、窓に近づいていき、そして窓を割る。と、誰かの腕が現れ、彼をとらえる。亡霊だ。なんとか戻ろうとし、その腕を切り落とす。そしてなんとか寝室に戻る。すると誰かが部屋に入ってくる。彼は目覚める。果たしてそれが夢だったのか現実だったのか、彼にはわからない......。この場面を読んだときすぐに、「ちょっと待て、これは『汚れたダイヤモンド』のための場面だ!」と思って、そのままそっくり盗ませてもらった。この例はクリシェとはちょっと違うけど、でも少なからず関係はあると思う。すでに存在していて、何度も回帰するかたちや要素、あるいは何度も回帰する問いというものに、向き合うこと。その道筋はたしかに少しややこしいところがあるけど、ぼくにはどうしても必要なんだ。さっきも言ったように、ぼくがまず最初にどうしても試みてしまうのは、クリシェの再使用だ。そこから、そのクリシェに別の魅力を加え、それを異質なものにし、厚みを与え、最終的にはいわば一種の原型──それは「品性を持ったヴァージョンのクリシェ」と言えるだろう──になるよう試みるんだ。いびつさを加えられた一種の原型だ。そうすることでクリシェはスペシャルなものになると思う。

──ありがとうございます。いまの話を聞いて、すっといろんなことが腑に落ちました。それで、今度こそ最後の質問です。さっきも話に出たパリからアントワープへの列車からのカット、そしてアントワープからパリの列車からのカット。あれってもしかしたら、実は同じひとつのカットを、逆回転させて「再使用」していませんか......?

A.H. 驚いたね、まさにそうなんだよ! あの列車の撮影はどうしても時間が限られていて、一往復だけしかできない状況だった。だから往路で列車から外向けのカットを撮り、復路で車内のピエールを撮らざるをえなかった。ピエール役のニールス・シュネデールは「こんな大事なシーンをこんなに限られた時間で、しかもワンテイクしかできないような状況で撮るなんて......」と、ものすごく不安になっていた。その不安が表情に出て、でもそのままそれが、あの瞬間のピエールの感情にぴったりハマったんだ。それで結果的にすごく良いシーンになったとぼくは思っている。(了)

取材・構成:松井宏

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アルチュール・アラリ Arthur HARARI
1981年7月9日パリ生まれ。祖父は俳優・演出家のクレマン・アラリ。兄は撮影監督のトム・アラリ。パリ第八大学で映画を専攻。2007年、中編作品に特化し、若手監督の発掘の場ともなっているブリーヴ映画祭で『La Main sur la gueule』がグランプリを受賞。2013年、短編『Peine perdue』が、ベルフォール "アントルヴュ" 映画祭の短編部門にてグランプリを受賞。2016年、長編第1作となる本作『汚れたダイヤモンド』を発表。フランス批評家協会賞・新人監督賞のほか、いくつもの賞をとる。現在、元日本兵、小野田寛郎に関する長編を準備中。また俳優として、私生活のパートナーであるジュスティーヌ・トリエ監督『ソルフェリーノの戦いLa Bataille de Solférino』(2013)、『Victoria』(2016)などに出演している。


   

『汚れたダイヤモンド』Diamant noir
2016年/フランス・ベルギー合作/フランス語・ドイツ語・英語/カラー/115分/1.85/5.1ch/DCP
監督:アルチュール・アラリ
脚本:アルチュール・アラリ ヴァンサン・ポワミロ アニエス・フォーヴル
撮影:トム・アラリ
音楽:オリヴィエ・マルグリ
出演:ニールス・シュネデール アウグスト・ディール ハンス・ペーター・クロース アブデル・アフェド・ベノトマン ラファエル・ゴダン ラグナト・マネ ジョス・フェルビスト ギヨーム・ヴェルディエ ヒルデ・ファン・ミーゲン
公式サイト:
https://www.diamantnoir-jp.com
2017年9月16日(土)より、ユーロスペースにてロードショー(全国順次)