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October 29, 2017

『イスマエルの亡霊たち』アルノー・デプレシャン
結城秀勇

[ cinema ]

イヴァン・デダリュス。この映画で一番初めに発せられる言葉であるこの名前によって喚起されるものは、すでにこの映画でこの後に語られる物事よりも大きなことを原理的に孕んでいる。『クリスマス・ストーリー』でメルヴィル・プポーが演じていたイヴァン・ヴュイヤールの姿を、『そして僕は恋をする』のマチュー・アマルリックから『クリスマス・ストーリー』のエミール・ベルリング、そして『あの頃エッフェル塔の下で』のカンタン・ドルメールに受け継がれたポール・デダリュスの名のことを、思い出さずにはいられない。もちろんここで問題になっているイヴァン・デダリュスは上記の人物たちと直接的に物語上の関係があるわけではない。だが、これは単にひとりの監督が常に登場人物に同じ名前をつけるというだけのことでもなければ、同じ登場人物たちによって作られるサーガ的な世界でもないし、アントワーヌ・ドワネルのようにそれを演じ続けるひとりの俳優の身体の成長とともに登場人物も成長するといったこととも根本的に違う。ここではまずはじめに名前があり、それが幾多の身体によって分有される、あるいは幾多の身体がそこに付け加えられる。そんなことを、原作がある作品や実在の人物を基にした作品以外で初めて登場人物の名をタイトルに冠した『イスマエルの亡霊たち』を見始めてすぐに思う(いや、エメさんの話をする『愛された人』L'Aimée という映画のタイトルがあったじゃないか、という気もするのだが)。
前述のイヴァン・デダリュスは、映画監督イスマエル・ヴュイヤール(マチュー・アマルリックが演じるこの役はこれまた『キングス・アンド・クイーン』で彼が演じた役と同姓同名)が、弟イヴァン・ヴュイヤールを基につくりあげた架空の存在に過ぎない。だがこの作品を映画製作のバックステージものと呼ぶものはいないだろう。この作品の前景をなすのはそれよりもむしろ、20年前に失踪しすでに死んでいたと思っていたイスマエルの妻カルロッタ(マリオン・コティアール)と、彼の長きに渡る寡夫生活をもしかして変えてくれるかもしれない存在であるシルヴィア(シャルロット・ゲンズブール)のふたりとイスマエルの関係である。だがイヴァン・デダリュスが巻き起こすスパイアクション風のパートが、それ以外の部分に対するただの作品内作品としての役割、単なる入れ子構造の内部としてあるかといえばそれは違う。
その名が複数の人間に口にされ、噂を巻き起こした時点でやっと登場するイヴァン・デダリュスは、丸坊主にしたルイ・ガレルという身体を伴っている。経歴もコネもなく、すでに若いというわけでもないのに外務省に異例の登用をされた彼の姿は、まるでヒッチコック映画で巨大な陰謀のただ中に放り込まれたただの一般人のようでもあり、カフカの主人公のようでもあり、気づいたらバーレスクの世界のただ中にいたバスター・キートンのようでもある。 彼の振る舞いは、後にほんのちょっとだけスカイプの画面に姿を現わす実在の人物としての(というのもなんだか変だが)監督の弟イヴァン・ヴュイヤールとは決定的に違う。それはイスマエルがいる水準とは別の水準に、デダリュスの方のイヴァンがいるからだという説明は一応できそうだ。だがだとすれば、デダリュスの妻アリエルと、それを演じる女優フォニアを同時に演じるアルバ・ロルヴァケルの存在はどうなるのか。アリエルは架空の存在で、フォニアが実在なのか?公園で寝転がるイスマエルの隣にいつの間にかいたフォニアは、本当にいたのか?
タイトルにある「亡霊たち」とはまず第一に、死んだと思われていたのに亡霊のように帰還したカルロッタであり、死んでもいないのに死んだことにされ一から架空の存在として作り上げられるイヴァンである、と言うことはできる。しかし同時にシルヴィアを演じるシャルロット・ゲンズブールの潜在的な亡霊性(ルーベの大叔母の家で蹲るイスマエルの隣にいたシルヴィアは亡霊でなくてなんなのか)とでも呼ぶべきものを感じずにはいられないし、ラズロ・サボ演じる世界的に高名な映画監督にしてカルロッタの父アンリ・ブルームとイスマエルが「アンリ」という名(『クリスマス・ストーリー』のマチュー・アマルリックの役名でもある)を通じてなす共鳴関係は、カルロッタというひとりの亡霊を通じた親愛の情を側面から補強する。
上映後の質疑応答でデプレシャンはマリオン・コティアールについて、「自らを神話として作り上げる力を持ち、と同時にそれを捨て去りただ生きることもできる力を持つ」と語っていたが、それはこの作品に出演するすべての俳優に当てはまる言葉であると思う。イスマエルというひとつの名前のもとに集められた人や物が神話を形成する。しかしそれはひとつの秩序だった神話体系ではない。太古の豊穣の女神の名が悪魔として列せられ、インドの破壊神が同時に日本の豊穣の神となるような、複数の体系の混合物である。そこではもはやいずれかの体系がその他の上位に立つことはなく、すべてがひとつの表面に織り込まれる。それはすでに崩壊した神話であり、それゆえに不可能な喪であり、生きることも生きないでいることもできないイスマエルというひとつの名のもとに形成される大いなる夢である。
そうした意味で、すべての登場人物がイスマエルの亡霊たちである。そして、マチュー・アマルリックが演じるイスマエルという人物さえも、この名が召喚した亡霊だとさえ言えるかもしれない。さらに言えば、こうした見方でこの映画を見てしまうひとりの観客としての私ですら、イスマエルという名でかたちづくられた亡霊たちのひとつに過ぎないのかもしれない。


  • 第30回東京国際映画祭にて上映。10/31にも上映あり